貧乏の段
幸田文の『流れる』を読んでいると、貧乏について主人公が思っている場面が出てきた。落ちぶれた芸者の置屋で女中として働く梨花は、四十を過ぎた未亡人。物語は女中の目から見た花柳界に生きる女たちを活写していく。そのなかで、置屋の女主人が金貸しとやり合う場面が出てくるのだが、女中の梨花はそのやり取りを見ながら、否応なしに貧乏について考える。そして、いまはみをやつしてはいるけれど、自分の貧乏は歴史が浅いのだと思い至るのである。
今目の前でやり取りしている貧乏は歴史が長い。いま目の前の貧乏が、何年も何年も前の子ども時代からつながっている。自分のように人の情に寄りかかっているような貧乏は貧乏とも呼べない代物である。貧乏の段が違うと言い切るのである。
これはなにも貧乏に限ったことではない。この歳になって思うのだが、年季の入った、つまり段違いの相手は怖いと思う。子どもの頃は「あの子は意地悪だなあ」と思うことがあると、こっちも同じように意地悪の仕返しをするか、素知らぬふりで受け流すか、その時の気分次第というところがあった。しかし、大人になってからの意地悪は、段違いの意地悪である。いまだに意地悪をするヤツに、ろくなヤツはいないという考えからこっちの考えも始まる。筋金入りの意地悪に、適当な意地悪で返したところで、より大きな仕返しが待っているだけかもしれない。または、意地悪が意地悪の郎党を連れて現れるかもしれない。
子どものころ、そいつが仲間を連れてきたところで、鼻をたらしながらふがふが言っているやつらなので、中にはなんの意味も分からずに集まっているだけの者もたくさんいる。けれど、大人になって集まる悪いのは、後から来るヤツに限って、前の悪よりも悪だと相場が決まっている。様子見しながらやってくる悪なんて、底抜けに卑怯者だから。
もちろん、いい人にも段違いの人がたくさんいて、段違いに優しかったり、段違いに慈悲深い人もいる。こちらは、そこまで優しかったり慈悲深い出来た人間ではないので、なんだかそういった人たちにも恐縮してしまうのだから、困ったものである。
僕はと言えば、そう言った段違いにいい人とか、段違いに悪い奴に関わりたくないのである。でも、段違いにいい人とか段違いに悪い奴は、誰かと関わることで本領を発揮するので、きっと誰かに近づいていく。思う存分本領を発揮すれば、自分から近付いていかなくても、相手から近付いてくるので、僕たちが彼らと出会う可能性は低くなる。用心しなければならないのは、自分を必要以上にお人好しに見せてしまったり、必要以上に弱い存在に見せてしまうことだと思う。そう思われないように用心しつつ暮らしながら、同じように自分がそんな段違いの人間だと思われないようにすることなんだろうと思う。
ああ、穏やかに生きていきたい。プチトマトを育てながら。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。