矢野顕子の『JAPANESE GIRL』を聴いたら。
さて、矢野顕子のデビューアルバム『JAPANESE GIRL』(正式名称は英語表記でした)の存在を知ったのが中学生の時。そして、初めてのアルバム(『JAPANESE GIRL』ではなく、『オーエス・オーエス』だけど)を買ったのが20代の半ば。そしてついに、30代に差し掛かっていた僕は『JAPANESE GIRL』を購入したのであった。
ボックスに入っていることをすっかり失念しつつ購入したので、実際にボックスを開封するまでついに『JAPANESE GIRL』を手に入れたしまったことに気付かなかったのであるが…。
それにしても、なぜ、僕はあんなにもあのジャケットを恐れていたのだろうか。なにか得体の知れないものがスピーカーから流れ出すような気がしたのかもしれない。いや、やっぱりあのジャケットが怖かったのだろう。ボックスを買ってからも、僕は『JAPANESE GIRL』だけは、CDプレイヤーにかけることなく、3年の月日を過ごしたのだから。
ここまでくると、僕はもうこのアルバムを一生聴かないのかもしれないと思い始めていた。ほんの少し、もう聴く機会があっても耳を塞ぐかもしれない、くらいの気持ちもあった。けれど、聴いたのである。『JAPANESE GIRL』を。間違えて。セカンドアルバムと間違えて、プレイヤーにセットして、聴いてしまったのである。
1曲目の『気球にのって』が部屋のミニコンポのスピーカーから流れたのである。気だるいような、奇妙な感じのパーカッションが部屋中に響き、これまた奇妙なテンションの矢野顕子の歌声が聞こえてきた。なんだ、これは!と思っていたら、新人だったころの若い歌声の矢野顕子がリトル・フィートを従えて、『気球にのって』という曲を、気球に乗っているかのように歌っている。
すげえなあ、と素直に思った。沢田研二だって、パラシュートを開いて『TOKIO』を歌っていたけれど、パラシュートで空を飛んでいる演技はしていたけど、空を飛んでいるような声を出していたわけじゃない。でもなあ、矢野顕子は気球に乗って空を飛んでるような高揚感と、いつ落ちるかもしれない不安を歌で表すんだもんなあ。
初めて雑誌でその存在を知ってから約20年。CDプレイヤーに載った『JAPANESE GIRL』はその日、延々とリピートを繰り返し、何度も何度も『気球にのって』、『クマ』という犬をワシャワシャして、『電話線』で世界中をめぐり、ホーハイ!ホーハイ!と『津軽ツアー』をして、船に乗って、波間に揺れながら『ふなまち唄PartII』を歌い、『大いなる椎の木』を見上げた後、空を飛ぶために『へこりぷたあ』に乗り込んで風に揉まれ、風という名のついた我が子を思って『風太』を歌うと、弾むように『丘を越えて』、再び海に出て行き『ふなまち唄PartI』を歌いつづけるのだった。
そして、2008年の矢野顕子は『JAPANESE GIRL』をアルバムの曲順にすべて演奏する、というリサイタルをすみだトリフォニーホールで開いた。
いそいそと出かけた僕は、1曲目の『気球にのって』が始まった途端に、息をするのも忘れて集中してしまい、過呼吸のような症状に一瞬陥ってしまったのだった。パニックになったのだけれど、シンと静まり返った会場で、僕は必死に立て直そうとした。かつて中学生のときに過呼吸になりやすい女の子がいて、その子が過呼吸になるとビニール袋を取り出して、それをふくらませたり凹ませたりしながら、呼吸を整えているのを見ていたので真似をすることにした。ビニール袋はなかったので、何気ないふりをしつつ、自分で自分の口を押さえ、意識して、息を吐いたり出したり。浅くなった呼吸を一人整えた。隣にヨメが座っていたのだけれど、ヨメも気付かぬすご技である。『電話線』あたりでおかしくなった僕は『津軽ツアー』のホーハイ!ホーハイ!あたりで立ち直ったのである。
以上、長くなりましたが、僕と『JAPANESE GIRL』の思い出でした。
植松さんのウェブサイトはこちらです。お問合せやご依頼は下記からどうぞ。
植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。