あけまして、さようなら。
みなさん、新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
今年の年末年始は兵庫の実家だった。長男は仕事で忙しく来られないというので、ヨメと長女と僕の母の四人で大晦日を過ごした。そして、深夜0時を迎えたと同時に「あけまして、おめでとう」と声を掛け合い眠ったのだった。夜が明け、元旦を迎え、お雑煮などを食べていると、ヨメの携帯電話が鳴る。何だろうと思って聞いていると、義父が亡くなったという報せだった。
義父はヨメの弟と二人で暮らしていたのだが、入浴中に亡くなったのだという。実はヨメは僕と結婚するときに駆け落ち同然だったので、僕はヨメの家族とは結婚前にしかやり取りをしたことがない。なかなか強烈な個性を持った義母とヨメはうまく折り合いを付けることができなかったのだが、さすがに結婚の許しは得た方がいいだろうと、挨拶には行ったのだった。でもまあ、普段から折り合いが悪いのに、そんな改まった話だけうまく折り合いがつくわけもなく、「出て行く」「出て行け」「ああ、出て行ってやる」と決裂してしまったのである。
それまでも、ヨメの妹弟とは話もしていたし、飯も食ったりしていたけれど、強烈個性の義母とは僕も折り合いが悪かったし、大人しい性格の義父とは顔を合わせることもなかった。唯一会話をしたのは、ヨメと義母が大げんかをして、家を出るときだけだった。荷物をまとめていたスーツケースがたまたま義父の足元にあり、「お父さん!スーツケース!」と僕が叫ぶと、義父が「あ、これか」とスーツケースを玄関先まで押してきてくれたのだった。
それから35年。途中で、ヨメの母親が亡くなったときには葬儀には参加したけれど、僕自身は義父と話す機会はないままだった。ヨメはここ数年、高齢になった父親とは頻繁に連絡を取るようになって、一緒に食事をしたりしていたのだが、僕にとっての義父は相変わらず玄関先までスーツケースを押してきてくれた35年前の義父のイメージのままだった。
それでも、ヨメと知り合った45年前には義父とも知り合ったわけで、ほとんど顔も合わせず会話もなかったけれど、初めて言葉を交わしたのが35年前の一瞬だったとしても、知らない仲ではなかったわけで。しかも、義父の遺伝子はうちの子どもたちにもしっかりと引き継がれているわけで。なんだかとても奇妙な気持ちで僕は通夜の席に座っていた。
祭壇には義父の遺品が並べられていて、そこには好きだった野球のグローブやジャズやクラシックのCDがあった。クラシックでもショパンがいちばん多かった。ヨメ曰く、ショパンが好きだったのだそうだ。そうか、ショパンが好きな人だったのか。知らないことがたくさんあるなあ。なにも知り合えないまま、「あけまして、さようなら」だなあ。それでも、ちゃんと義父がいたことは知っているし、その遺伝子を引き継いだ長女と長男がいる。
なんだか、今年のお正月はいろんなことが全部盛りだなあ。
というわけで、みなさん、今年もよろしくお願いします。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。