京都を歩いて「多様性」について考えてみました。景色、って大事。
昨日は、京都に出かけてあちこちの路地に入って、行き当たりばったりにお店をのぞきました。
箸置きとお茶碗を買って沖縄料理を食べて帰りました。
京都には、「どうやって儲けてんのかな?」というお店がたくさんあります。伝統系、アート系、アングラ系、和柄系…。繁華街には、観光客相手の虎視眈々とした猥雑さと、表看板なんか多少さびれていても痛痒なしといった老舗系が入り乱れ、あちらのお店から、こちらのお店に移動するだけで、ちょっと大げさにいうなら、室町時代あたりから現在までを行き来できる。
店に足を踏み込んだ瞬間に時間の奥行が深まったり、浅くなったり。その感覚が、なんともいえずクセになります。お店も奥行が極端に浅かったり、想像していたより、ぐっと深い町屋だったりして空間的な奥行にもバラつきがある。「どこへ行こうか」と路地の先を見通して見当をつけることも「奥行観光」的ですね。大通りから路地へ、路地から店へ。店の表から奥へ。そしてまた表へ。
多様性って「種類」のバリエーションだけじゃないんですよね。奥行の多様性というものもあって、それが面白い。浅いものあり、深いものあり。両方が入り乱れていて眩惑的な、油断できないアトラクションになる。
さらに「種類の違い」と「奥行の違い」に加えて「目的の違い」もあるなと感じるのです。京都の路地には、「立派な店を構えているけれど、扉を硬く閉じて誰も寄せ付けない」雰囲気の伝統芸能系・古美術系などが混じっています。それらの店は、道行く観光客や買い物客なんか相手にしていないので、人気の抹茶カフェとは店の目的はきっと異なる。でも、軒を連ねている。相手にほとんど関心を払うことなく、相手の魅力を補完するカタチで。片方はちょっとナウく見えるし、片方はちょっと本物に見えるし。
わたしたちが多様性と語るとき、種類の違いばかりに目を向けているところがあるな~と感じました。「いま」の違い。「いまあるカタチの違い」「いまのライフスタイルの違い」。
「景色」を共有しつつ、
バラバラでいられるのっていいですね。
多様性って、コンセプトにすると意外につまんなくなるけど、
自然発生的な広がりを信じることで得られる多様性を考えてみたい。
この「どうする?Over40」でも。
都会の無関心って昔から悪者みたいに言われますけど、
適度な無関心って多様性のキモですね。
洗練と無関心は、自由と寛容の別の顔だな。
つまみ
おはようございます。
一晩寝かせてみました。
今回のカリーナ部長の文章は今後の自分にとってすごく肝になることが書かれていると思うのですが、現在わたしは花粉症の症状が大爆発中で、なにかを取り入れたかと思った瞬間にくしゃみと一緒に雲散霧消してしまうのです。
「景色」を共有しつつ、バラバラでいられるっていいですよね。
そして・・そうそう、それを「多様性」って言葉にしてしまうと一瞬にして凡庸になってしまう。
論旨がズレてしまいますが
ちょっと前までは「いろいろあっていい」という言葉って人生の援護射撃だと思っていたのですよ。
でも、いろいろなのは当然で「あっていい」というと、「王道はそれじゃないけど」と但書をつけられているみたいで、ちょっと違うかな、と思うようになりました。
街並みの、お店の、人生の、バリエーションって、二次元じゃなくて三次元なのはもちろん、四次元かもしれない。
見た目(縦×横)があって、奥行きがあって、時間があったら、ほら四次元。
四次元が作り出す広がりは、広がりというより拡がりで、もう多様性の範疇さえも軽く凌駕してるっていうか、アタマで描くイメージなんてすっ飛ばす感じ。
手に余るっていい言葉だと思います。
何を言ってるのかわからなくなりました。
言いたいことは実はひとつだけなのです。
京都に行きたくなりました。(^O^)