犬とヒヤシンスで考えた。なぜ、動物や植物に「本質的ななぐさめ」を感じるのだろう。
数週間前から、ヒヤシンスの水栽培をしているんです。最初のうちは、暗い環境に置き、「水に浸かっているけど、ここは土の中」と錯覚させなければならないらしく、薄暗い玄関に置いています。真っ白で柔らかそうな根が、クラゲの触手みたいに伸びるんですね。見てはいけないイノセントなものを目にする感じ。(下の写真は11月6日)
「さてさてヒヤシンスさんは、どんな感じですかね」としばしば玄関に行ってじーっと見てしまいます。今日も仔細に観察したら球根の上のほうに「芽の候補生」が顔を見せはじめていました。やった。生命のプログラム偉大なり。(右の写真が今日のヒヤシンス)
2年前に犬が亡くなって「温かくて呼吸する柔らかいもの」がいなくなりました。
うちの犬は、10キロ超ぐらいの雑種犬でしたが、お腹に顔を押し付けるたびに「ここには、いろいろと大事な臓器が入っているから、これ以上、体重を乗せたらいかんぞ」と警告されるように感じました。動物のおなかはやわらかいですねえ。呼吸も思ったより重労働だと思ったなあ。この体温をキープするのも、こりゃなかなかに大変だぞ、とも思いました。そういったすべての生命活動が愛しく、柔らかく、かわいかったです。今、思えば。
植物をじっと見ていたり、動物を静かにさわっていると何となく気持ちが落ち着いてくるのは、生きているものどうしの呼吸のやりとりがあって、お互いの「生きてるだけの重労働」をなぐさめあっているからじゃないでしょうか。「あんたも大変だね」「うん。呼吸、やめられないからねえ」「わたしもやめられない。温度も36度台のとろ火をつけてなきゃいけないし」「そうそう。わたしも光合成やめられないのよ」的な。わたしたちは、そこに「本質的ななぐさめ」を感じていませんかね。
人間には、言葉があるので、「いたわりあい」をもっと端的に伝えられます。「賞賛」から「罵倒」までエッジを効かせて相手に与えることもできます。でも、まあ、お互い動物どうしと考えるならば、「いたわりあい」の交換をベースにすると、いろいろうまくいくんじゃないかなあと思います。
今日は、「KEIKOのデコボコな日常」が公開されています。KEIKOさんiPhoneを使いはじめました。このスマホを使って視覚障害のある人が映画を見るシステム、先日の「この世界の片隅に」で知りました。近くの映画館で見たい映画を視覚や聴覚に障害があっても気軽に見られる。そのためのスマホ活用、すばらしいと思います。わたしたちの生きる希望にもつながりますね。ぜひ、お読みください。