「あの人はそういう人だから」とあきらめてもらう。後半生は万事、その調子でいきたいものです。
夫の家族は動物と昔ながらの接し方をする人たちで「オウムをもらったが気がついたら死んでいた」とか「〇〇(夫)が小さいときに犬を拾ってきたけど捨てに行った」とか、そういう話がしばしば出てきます。昔は、野良犬や野良猫が多かったのでみんなテキトーにつきあっていたのですよね。わたしも野良犬が毎日、学校までついてきていましたが、父と叔父が車にのせて山に捨てに行ったことがあります。
野良のいた時代。動物と子どもは突然出会って仲良くなったりして、いい面もあれば、悪い面もありました。
いまは、犬も猫もほとんど室内で飼うことになり、接し方も大きく変わりました。わたしもいま、2代目の犬を大事に育て寝食をともにしています。
夫が倒れてから、しばしば「犬」の問題が持ち上がります。
犬ごときとあなどるなかれ。それは、「異文化問題」であり、「価値観の問題」なのです。
わたしは「犬の散歩があるのでごはんは夜じゃなくてランチでお願いします」とか「犬の散歩があるので明るいうちに帰ります」と言いますが、毎回、ちょっとだけ言いにくい。面倒くさいなあと思います。だって「ああ!それは大事だ!すぐに帰ってください!」とはならないからです。人間の赤ちゃんだったらなりますよね。「ああ。帰って!迎えに行って!」と。犬はなりません。「あの人は、犬が一番だからね…」と変人扱いされる可能性もある。特に夫の家族には。
これは、あれですよ。
「礼拝があるので失礼します」とか「豚は食べません」とか、極端にいうと宗教の違いや民族の違いにも似ています。日本は同調圧力が強いといいますが、この同調圧力は「圧力をかけるほう」にのみ責任があるのでなく、「圧力をかけられるほう」にも責任がある。我慢しちゃうから。飲み込んじゃうから。「変な人であること」を隠しちゃうから。「ちょっとくらいいいじゃん」と自分が自分を抑圧しちゃうから。
樹木希林さんが亡くなってから、ドキュメンタリーや追悼番組を何本か見ましたが、どこでも、渋いマイ箸入れに入ったマイ箸を出していました(津端英子さんと行った居酒屋さんはどうだったか未確認)。「もう、そこは、いいじゃないですか。相手に合わせれば」と思うところでもマイ箸!万事、その調子。
その姿を見て思いましたよ。異文化を受け入れよう、だけじゃだめだ。そう思ったり、言葉にしたりするだけじゃだめなんだ。つまり、寛容であろうとするだけじゃだめなんだと。
まず、自分がしっかりと異文化でないと。
自分の異文化性を明確に主張しないと。つまり「変な人でいい」と腹をくくらないと。多様性は、その主張によって成立するのです。受容だけじゃだめだし、主張なき受容なんて所詮「口だけ」です。
犬問題から話がやたらとデカくなりましたが、わたしが今、保護しなければならないのは、病床にある夫の次は犬です。娘は成人して外国にいるし、姉は元気だし、父母は亡くなっている。もちろん友だちは保護する必要はない。
この犬の優先順位の高さを理解してほしいとは思わないけれど主張する。淡々と行動で示し続けて「ああ。そういう人ね」と思ってもらう。あきらめてもらう。
後半生、こういう調子で万事、やっていきたいものです。自分を抑える人は、同調圧力をかける人にもなる。
先週の土曜日は、3本の記事が更新されています。ふぇんふぇんさんのがタイから送ってくださる「犬バカ日和」は写真を見るだけでも楽しいです。おしゃれ会議室は、「差し色」について「なるほど!」と発見。カレー記念日 今週のおかわりは、お昼休みなどにぴったりの面白さです。投稿もお待ちしています!まとめ読みをどうぞ。
オバフォーは今週もほぼ毎日更新します。時間のあるときに遊びに来てくださいね。
アメちゃん
ああ、わかるなぁ。
私、お酒飲まないし、カラオケも好きじゃないから
会社勤めしてたときは、忘年会後の二次会とか行かなかったし
慰安旅行も「祖父の法事で…」ってウソついてズル休みしたし
大勢の人と、地べたに座って飲み食いするのがイヤだから
お花見に誘われても、ことごとく断ってきましたー。
で、とうとうお花見も誘われなくなって、すっごく楽。
自分がこうだから、人がどうとかあまり気にしないです。