自分で決める幸せ、なんとなく決まっていく幸せ。
仕事の関係もあって、ふたつの生協から食材をとっています。それぞれ月曜日と水曜日に届くのですが、何を注文したか忘れてしまうので毎週日曜日にその週に届くもののリストを見ながら1週間の夕ごはんの献立を決め、スーパーで買い足すものをメモしておきます。
この習慣をはじめたのは、夫が倒れてから。夕方、台所に立つのが億劫なので、できるだけ朝のうちに準備して温めるだけにしておきたい。段取りのよい準備と一日がんばった自分をねぎらう満足のいく夕ごはんにするために、日曜の「献立決定の儀」はとても重要なのです。
夫が倒れる前は違いました。週末に食材をまとめ買いして、そこに生協から届く商品も加えて、毎日、夕方からちゃっちゃと作る。わたしが作るときもあれば、夫が作るときもある。何が食べたいか相談したり、相手はこれを食べたいんじゃないかと想像したりしながら、夕ごはんのメニューが何となく決まっていく。自分が決めたような、相手が決めたような、ふたりで決めたような、何となく決まったような…そんなふうに夕ごはんは出来上がりました。
家族で暮らす、ということは、「何となく決まることが多い」ものなのだとわかりました。夕飯の献立ひとつをとっても「今日はなんとなくこれ」「子どもたちは、これが食べたいんじゃないかなと思うからこれ」「そろそろこのメニューの登場」という具合に、だれが言葉にしたのでもない長年の習慣や傾向や好みからおのずと決まっていく。
食事以外のことも、そんなふうに「だれが決めたのでもなく」決まっていくことが多いような気がします。自分で決めなくても、なんとなく決まっていく生活。家族の暮らしとは、さまざまな決定に自分以外の意向を無意識に含んでいくことであり、そのことによって誰が決めたのでもない無数の決断が下され、生活がまわっていくことなのです。
自分で決めるのもいいけれど、あらゆる決定をなんとなく家族の集団意志にゆだねる暮らしもいい。それが平和で楽しく、ごきげんであれば最高です。家族は、あらゆることを習慣化することで、その都度考えなくても生活がまわっていく小さな集団。だからこそ、しばしば「こんなことでいいのか」「わたし一人ならこんなことしないのに」という疑問や不満が頭をもたげますが、いちいち決めなくてもいい幸せってものもある。委ねる幸せってやつですかね。それもいいものだなあ、としみじみ思います。
先週は、中島慶子さんの「ワクワクしたら着てみよう」が公開されています。コメント欄、賑わっていますよー。コメントといえば、こちらもお待ちしています!あなたが見つけた小さな秋、教えてください。そして日曜日の昨日、ハラミさんのショーワ乙女研究所が公開されています。めちゃめちゃ懐かしい!40年代に子ども時代を過ごした人、必見です。わたしも持っていましたー。
オバフォーは今週もコツコツと更新します。時間のあるときに遊びにきてくださいね。待ってます!カレー記念日やよもじ猫の投稿もよろしくね。