「わたしと同じ立場の人はいない」と気づいて、その後。
こんにちは。カリーナです。
昨年、夫が脳出血で倒れてからのことを新聞に連載しました。そのことをお知らせする記事を見ると「わたしと同じような立場にある人に読んでほしい」と意気込んで書いています。そうでした。あのときは、そう思っていたのでした。連載が「発病直後」についてのものだったから。救急搬送から転院までは、ほぼ全員が同じ過程をたどります。心理面の動揺や不安も多くの人に共通すると感じていました。それは、まあ、間違いではなかったなと思います。
しかし、その後、時間がたち、コメントやメールで感想をもらうたびに「同じ立場の人は、いない」と考えるようになりました。
「夫が脳出血で倒れた」ことは同じでも、倒れた年齢によって状況は大きく異なります。わたしの夫は59歳で倒れ、娘は22歳。留学で一年余分に通うとはいえ、大学も残すところあと1年。教育費については、ゴール寸前まで来ていました。これが、育ち盛りの子どもがいる、しかも複数いる、となると危機感も悲壮感も途轍もないものでしょう。
さらに大きく異なるのは、その後の回復状況です。わたしの夫は、いまも「遷延性意識障害」の診断を受け、いまも意思疎通のまったくできない状況です。病状としては、「生き残ったけれど最悪」であることは間違いありません。
しかし、介護者の負担という意味では、必ずしもそうとはいえない。夫ほど重篤ではなく意識は戻ったけれど寝たきりであったり、回復して自宅に戻ったけれど常に介護が必要だったりと、この病気が、さまざまな後遺症を残すものだけに「介護者の負担」という点では、「現在のわたしの何倍も大変な状況にある人」がたくさんいます。「わたしのほうがずっとつらいよ」と思いながら、読み進めた方も大勢いるでしょう。
そういうわけで、いまは、「わたしが代弁できる人などいない」と思いながら、書いています。ただ、自分より大変な人がいるから何も語る資格がない、とは考えないようにしています(考えてしまうときもあるけど)。 先日、アカデミー賞の授賞式でポン・ジュノ監督が、若いころに心に刻んだ言葉としてマーティン・スコセッシ監督の「最も個人的なことが最もクリエイティブなことだ」を引用し、感謝を捧げていました。
わたしには、わたしの悲しみや切なさ、空しさがある。そう思って、個人的なことを、一般化しようとせず、ことさらに共感を求めず、同時に卑下もせず、注意深く、できるだけ正確にすくいあげて言葉にしていこう。そんなふうに思っています。
今日は振替休日ですね。コロナウィルスで鬱々として気分になってしまいますが、オバフォーは、今週も変わらずコツコツと更新します。「いどばた。」のお題は、「現実逃避。さあ、誰になる?」米倉涼子、大地真央…あなたは、だれになりますか。わたしは、一日だけジェニファー・ロペスになりたい。よかったら、おしゃべりにきてください。
Jane
私もカリーナさんやオバフォーのメンバーの方々のイラスト顔を思い浮かべ、もっと苦しい人がいるのだから自分なんてまだまだと言い聞かせること多々ありますが、一時しか効きません。
最近自分の読む一日のニュースの総量の中でコロナ関連が9割くらいになってきて、「なんだか世の中真っ暗人生嫌なことばっかり」でちょっとしたことでも「今の差別?私避けられてる?」という気がしています。これは鬱になりかけてるからニュース読むの制限したほうがいい、読んで何かが変わるわけじゃない、ストップ自分と思っても気になってしまい、朝夕各国の感染者数死者数確認せずにいられないみたいな。
武漢でコロナにかかって苦しんでいる人のこと考えたら不安になる資格なんかない、と思ってもまったくのところ気が楽にならないですね。人は自分の苦しみに一番敏感なのだし、似た状況と言っても、感じ方も耐性も人それぞれだから。
匿名
言葉にすることが出来ないで悶々としている私にとっては救いです。