孤独とは、終わりの見えない退屈か。コロナが変える、それぞれの日常。
こんにちは。カリーナです。
コロナウィルスによる自粛とキャンセルの終わりが見えないなか、いかがお過ごしでしょうか。
イタリアを除いて致死率はさほど高くなく、子どもや若者の感染も少ないため、強烈な危機感というより、じわじわと生温かな不安が時間とともに広がる「低温やけど」的なおそろしさ。ぱっと見、表面はさほど火傷していないのに、皮膚一枚めくれば、その下の細胞が破壊されてジクジクと重症化しているみたいな恐怖を感じます。株安もそうだし、オリンピック開催も危ぶまれるし。
小さなお子さんや育ち盛りのお子さんがいる家庭は、さぞ、「もてあますエネルギーの扱い」と「昼ごはん」に悩んでおられることでしょう。大勢の家族が家にいると食材はあっという間になくなる、トイレットペーパーだってなくなる。自分の時間がもてない。ああ、本当にお疲れ様です!
一方、長崎で一人暮らしをする姉ちゃんは、アクティブな70歳ですが、コーラスサークルの予定がすべてキャンセルとなり、時間をもてあましています。コーラスは、確かに歌声とともに飛沫が飛ぶしね。危険度が高いといえば、高い。
「子どものエネルギーをもてあます」のもつらいけど、「時間をもてあます」のもつらい。家のなかに一人いて時間をもてあますと「自分に向き合う」からつらい。自分にいくら向き合ってみても、そこにあるのは、「ぞわぞわとする胸のあたりの感覚」で、その「ぞわぞわとする胸のあたりの感覚」は、不安なような、空しいような、虚ろなような、そんな実感なので、それを抱えて家のなかにいるのは苦しいです。
それを、孤独と呼ぶのかな。
孤独とは、終わりの見えない退屈か。
「自分」というのは、向き合ってもみても「ぞわぞわとする胸のあたりの感覚」にしか帰着しないので、あまり向き合わず、というか、できるだけ忘れて、何かに没頭したほうがいい。とはいうものの、没頭する対象なんてなかなか見つからないから問題なんですよねえ。ターシャ・チューダーが人気を集めたのも、あの庭の美しさもさることながら、「日常に没頭していられる」ことへの憧憬だもんな。
これまで、あの人の世話、この人の世話、あの仕事、あの用事でまぎれていたのものが、「没頭しろ」と言われてもねえ。まあ、「没頭」までいかずとも「暇つぶし」が上手にできるといいのか。欲をいえば、「創作」とか「育成」的なものに忙しくしたいものだな。日々、少しずつやっていくと完成するものとか、文字通り、花開く栽培系なものとか。まあ、それでもゾワゾワする胸の感覚は、つきまとうのでしょうけど。
姉ちゃんの「時間をもてあます」問題は、間もなく一人と犬一匹の暮らしになるわたしの問題でもあります。仕事をしているので「もてあます」というほどにはなりにくいけれど、「胸のあたりのゾワゾワ」が「虚しさ」にスライドする感覚は、これまでにも体験しています。
願わくば、だれかとともにある時間も、ひとりでいる時間も、そこそこに満たされてありたいものです。創意工夫か。
匿名
初めてお便りします。‘’孤独とは終わりの見えない退屈‘’ 今年還暦を迎える私の心の内を的確に言っていただいた言葉です。元気なら長生きもよいという人がいますが、そうかなぁ。私の母は85歳元気に一人暮らしです。立派だと思いますがそうなりたいかとは別です。長生きの時代、あと20年、30年何して生きよう?と日々思ってしまいます。