Posted on by カリーナ
この人や、あの人のいない、春、桜のとき。
こんにちは、カリーナです。
今朝、スーと散歩していたら初めて歩く桜並木に出ました。雪柳も咲いていて美しかったです。
2010年に亡くなった免疫学者の多田富雄さんが、脳梗塞で声を失い、右半身不随になったとあとに新聞連載で春の大学の風景について書いていました。圧倒されるほど美しい文章でしばらく手元に置いていたのですが、なくしてしまった。
キャンパスに桜が咲き、そこに人々が笑顔で集っている。去年と同じ美しい風景だが、そこに咲く花も学生も何ひとつとして同じものはない、というような内容でした。
病床にある自身と若者の華やぎと未来への楽観と、それらを取り囲みながらも人間の情緒とは無縁に咲き誇る桜。かつてその桜の下で教師の一人として談笑した記憶もよみがえったでしょう。「一瞬のなかにこれまでの人生というすべての時を見る」感覚。何もかもが一度きりで、一瞬にして過ぎ去る。しかし、桜は咲く。世界は、不変であるように美しく…まだ40代だったわたしは、そこに描かれた人生の不可逆性とはかなさに胸が震えました。
今年も、桜が咲いています。それを見る人も、その気持ちも、去年とは違うけれど、世界は不変であるかのように美しい。
「開花宣言、出ました!」と喜び、毎朝、窓の外を見るたびに「ああ。ここは、本当にきれいやなあ」と言っていた夫が病床に伏して1年と7か月。夫の声が響かない2度目の桜がベランダの前に咲いています。
さきほど志村けんさんの訃報が入りました。そうかあ、志村さんも、いないのかあ。いま、この瞬間。この花のとき。
Jane
本当にお花見特等席なんですね。私の二階の部屋の窓もハナミズキの枝がすぐ届きそうなくらいに近いのですが、地上から見るのとはまた違い、幹が見えない分視界を花が占める割合が多くなり、特に白系の花だと、花びらが陽光を含んで純度高く光り輝くという感じですね。
築百二十年の家に住んでいて、家の前に植えられた二本の樫の木は、建物で言えば五階建てくらいの高さに成長した切るに切れない巨木ですが、この木も小さかった時があった。植えた家族がいた。過去何世帯もの家族がここに住んで生き死に、様々な思いでこの窓から同じ木を眺めてきたんだろうなと、時々思います。