(10)親子という仕組み
転院先の療養型病院に介護タクシーが着くと、看護士さんが手際よくストレッチャーを受け取って母を移動させていく。ものすごーーくほっとする。
ふと看護士さんが振り返って、「コロナで面会が難しいので、今もう少しお話されますか?」と聞いてくるが、「いいです!!」と即答。
死ぬまで絶対に顔を見ない、と強く誓う。
早春の明るい光に包まれたロビーで、ぐったり疲れながら手続きを進める。はからずも、子どもの頃住んでいた社宅のすぐそばの病院なのだ。私はそんなことすら母に伝えない。
医師との面談では肺のレントゲン写真を見せられ、「この白いところが…」「そう長くはないと思われます」「苦痛のないようにお看取りしますので」と説明される。やはり1年ぐらいなのかな、もっと早くていいんだけどな、と思いながら、神妙な顔を作って聞いておく。
看護士さんからは、いろいろなことを聞かれる。インフルエンザのワクチンは打ってますか? 知りません。…はしてますか? 知りません。…はどうですか? だから知りませんってば! 20年間絶縁してたので知りません!!
あげくに、看護士長が「思ったよりもお元気なので、落ち着いたらご自宅で介護することもお考えになっては」とぬかす。あまりにも気持ち悪い提案で、想像しただけで身の毛がよだった。
いきりたって「100%無理です!」「実家に母を置いておいて、私が往復2時間かけて家から通うんですか? 働きながら??」「自分の家になんか絶対に置いておきたくありません!」「大体、20年間絶縁していたような関係ですよ、なんで私にそんな義務が」と、まくしたててしまう。
私は私が思っているよりももっともっとずっと、母のことを嫌っているらしかった。
しかし、よく考えたら、引き取って実家に放置して死なす、というのが一番効率がいいのかもしれないな。なあ~んだ、その手があったじゃん。いや、まあ、ケアマネさんとか訪問診療とか、いろいろと第三者に止められちゃうんだろうね、実際はね。でも、実家に放置することを想像すると、道端に放置と同じで、かなり気がまぎれる。
病院だと24時間、手厚く看護してもらえてしまう。もちろん末期なのだからいつかは死ぬのだが、医療関係者の職業倫理として、より良いものを目指してしまうのは当然で、苦痛を取り除く行為を頑張ってしてくれてしまうだろう。そんなことはしなくていいのに。苦痛でいいのに。
いや、そもそも別にどうでもいいのかも。とにかく存在自体を忘れたい。もう疲れた。消えてほしい。跡形なく消え失せてほしい。
くたくたになって帰宅した。
そういえば、前の病院から、母が倒れたときに着ていた服など、ビニール袋に入った一式を渡されていた。今後着ることもないだろうから、今の病院では引き取ってもらえない。仕方なく持って帰ってきたのだ。もちろん捨てるのだけれども、分別のために袋をあけてみた。
すると、強烈な臭いが! 体臭が!
恐ろしいことに、その臭いは、自分の口臭とそっくりだったのだ…!!!
ふと目に入った靴の裏には、自分と全く同じサイズが書かれていて、これまたぞっとする。
すぐに袋をとじて、分別も何もせず、急いでごみ捨て場に持って行った。
存在自体を忘れたいのに、母の断片が私の中にいる。
顔は似ていないのに体臭が似ているなんて、遺伝子のつながりを如実に示しているではないか。私が生きている限り、私の中の母の遺伝子は消えないのだ。
顔も見たくないのに、四六時中一緒にいて逃れられないとは。
なんてことだ。
親子なんて仕組み、なくなればいいのに。
親子なんて組み合わせ、なくなればいいのに。
親が子を作るなんて、なくなればいいのに。
法的制度って意味じゃなくて。遺伝子がつながる仕組み。
つまり、親の遺伝子の一部を使って子ができるのとは違う仕組みで、個体を増やせないものだろうか。
考えてみてよ、神様。
こうして、母が救急搬送されてから約1か月、毎日10件電話がかかってくる日々がやっと終わった。
絹ごし豆腐
お疲れ様でした。
その一言に尽きる感じでしたね。
それにしても…なんかいろいろとお察しします、としか言いようのないものが…。
いやいや、本当に心から、お疲れ様でした。
実の親子って、いろいろと思うところありますね。
私の場合は、実母が再婚した先でできた子どもが全てやってくれたので、ラッキーだったとしみじみ思いました。
何度言ってもなんだか言い足りない気がして、再度改めて、お疲れ様でした。