(11)一族の誇り
母が転院して少し余裕ができてきたが、それなりに電話がかかってくる。
母からの頼み事だ。母が病床でメモしたものを看護師さんが読み上げる形で伝えられる。「手紙を書くので机の上にある住所録を送ってほしい」とか、「何か読むものを送ってほしい」とか。「家を相続して住んでほしい」というのもあった。「お前のような出来の悪い娘には相続させない」とあんなに言っていたのに(苦笑)。大丈夫、住まねーよ。
電話は数日に一度はかかってくるので、どうやら看護師さんも困っているらしい。「ナースコール押しまくりでお元気なんですよー(苦笑)」とのこと。大変ですね。。。「今日はお姉さんと弟さんのお話を伺いましたよ。有名人だとか(苦笑)」。うん、「苦笑」ですよね。。。
おばもおじも有名人なんてことは全くない。必死になって検索したら、その業界の人の回想録とかに名前が一瞬出てくる程度。それでも母は自慢せずにはいられないのだろう。自分や夫や娘のことは自慢できないから。誰かに「すごいですね」と言ってもらいたいから。そう言ってもらえないと存在してはいけないと思っているから。
母がよく自慢していたのは、一族の男性がみな東大卒だということだった。どこまでが「一族」なのか、本当に全員がそうなのかはわからないが、母はそう思っていた。
たとえば、私の夫の両親と何回目かに会ったとき(私と夫はその場にいなかった)、定番のその自慢をし、大げんかになったらしい。なぜなら、夫の父親は働きながら夜間高校を出ているからである。そのことを母は「ご苦労されて」「なんてご立派なことで」と繰り返して褒め、その舌の根も乾かないうちに「私の一族は男性はみんな東大卒なんですのよ」と言う。あたおかですよね?
夫の父親も暴力野郎なので(これはまた別の話)、まるで蛇とマングースの戦いのようであった、と、あとで夫の母親から聞いてからは、この事件は私と夫の間での爆笑ネタとなっている。
何より恐ろしいのは、母の妹の息子(私のいとこ)が、東大に入れなくて若くして死んでしまったこと、そして母がそれを勘定に入れていないことだ。
学部で東大に入れず、大学院で東大に入ろうとしたがうまくいかず、早春の寒い日に公園で雨に打たれて、結果、亡くなってしまった。ある意味、自殺だ。いや、どう考えても自殺だ。そのとき母は「かわいそうに」と泣いていた。泣いていたのに、それ以降もずっと「一族の男子はみんな東大」自慢をしているのである…!
「学歴差別をしてはいけない」と言いつつ、「東大」を自慢し、「娘さんを専門学校に進学させてはどうか」と言われて半狂乱になる。自分が学歴差別していることに気づかない。
私がマニキュアを塗っていると、「パンパンみたいだ、はしたない」と怒る。その一方で、従軍慰安婦の支援団体に寄付をしている。同じ戦争の被害者である女性なのに、なぜ差を付けるのか。
母は「平等」や「人権」を口にしながら、誰かと誰か、ひいては自分と誰かの間に差を付けずにはいられない。
その欺瞞は、娘のためだと口では言いながら、実際は娘を自己実現の道具にしていたこととイコールだ。
私は、母が救急搬送されて以降、マニキュアを次々買っては塗るを繰り返していて、母への反発とストレス解消でそんな散財をしていることは明らかなのだった。
母は4人兄弟で、姉はみんなのリーダー、弟は長男として特別扱い、妹は末っ子として可愛がられ、しかし次女の自分には何もアドバンテージがない、という不利な立場だった。
祖父は官僚で、とても厳しい人だったという(私が2歳のときに死んだので私は覚えていない)。祖父との葛藤は母からよく聞かされた。活動写真を見に行くと怒られ、一方で、ピアノのお稽古は全員にやらせていて、要するにハイカルチャーしか認めなかったわけだ。その教育方針は母にも受け継がれた。
しかし、むしろ戦犯は祖母なのではないか。明治末生まれの、京都の商家の末娘。これからの時代は商人ではなく役人だ、と帝大(つまり東大)出の理想の夫を探すために何回も見合いを繰り返したという。「ふぞろいの林檎たち」の時任三郎の両親が、いい大学、いい会社に固執して時任三郎を苦しめるくだりがあるが、母の発想とそっくり同じで、なんと彼らも昔ながらの京都人なのである。
祖母と同じ頃に生まれた、ある評論家の自伝を読んだら、冒頭に祖先や親戚の著名人の話が延々と続いていた。昔の人は血縁ごとの分かりやすいステータスを求めるものなのかもしれない。ましてや「伝統」を誇りにしてきた100年以上前の京都の商家なら、なおさらだろう。
祖母は時代に合わせて、家柄ではなく学歴、職歴を重視するよう自分をアップデートした。しかし、ステータスに固執するという点では何ら変わるところはなかったのではないか。
母はレーニンの「学び、学び、そして学べ」を座右の銘としていた(それもまたすごいが)。しかし、やってることは、ロシア革命が目指した農奴解放や貴族階級の打倒といった平等の考え方とは真逆なのだ。母にとって、レーニンの言葉は「学び、学び、学んで、いい学校、会社に入ってステータスを得る」に変換されてしまっている。
気の毒と言えば気の毒なのかもしれない。母の世代は戦後教育を受けて平等や人権という考え方を学ぶ一方で、親からはステータスを求められ続けていたということになるからだ。
しかし、それならそれで反発すればよかろうに、葛藤を自覚せず、口先では平等をうたい、内心では他人を見下し、多重人格のようなその矛盾を、娘である私に垂れ流した。
看護師さんの電話からは、母がとにかく「かまってちゃん」になっていることがありありとわかった。挙句に「さみしがっておられるので、電話で話してあげてもらえませんか」とまで言われる。「病室のほかの方はお話できない方が多いので、さみしいんだと思います」。そうか、療養型病院というのはそういうところなのだ。
いやいや、だからといって私は母とかかわりあいたくない、そこは絶対に変えられない。大体、話すことなど何もない。コロナでなかったら面会を求められてしまうところだろう。普通は「面会したいのにできない」と嘆くだろうに、私は「コロナで良かった」と思う。
看護師さんの負担を減らすべきだとはわかっているが、「ごめんなさい、無理です!」と答えて電話を切った。
とらこ
母を葬る、という題名に心を鷲掴みにされて、ずっと読んでいます。
葬ることができたんだ、いいなぁ、というのが率直な気持ちでした。
次をいつも心待ちにしていましたが、その私が先月母を葬りました。
やっと。
ホッとしたのが事実です。
様々な気持ちが交錯ふるなか、プリ子さんの文章にとても支えられました。
プリ子 Post author
とらこさん、ありがとうございます! そんなふうに言っていただけて、書いて良かったですーーー(不快感を持つ方も多いかなと思っていたので)
そして、葬ったんですね…! お疲れ様でした!! ゆっくりなさってください。
私はこの連載を書きながら、自分の中の母を少しずつ葬っている感じです。もう少し続きますので、よろしくお願いします^^