スターバックスでアテレコするの巻
本屋で楽しみにしていた本を買うと、家に帰るまで待ちきれずに喫茶店に飛び込むということがよくある。子どもの頃は、近所の本屋さんで本を買うと、近所の神社の境内で読んだ。ベンチなんてなかったから、古い石灯籠の台座のようなところに腰掛けて、暗くなるまで読んでいた。
最近は、昔ながらの喫茶店も減ったし、自分自身が煙草を吸わなくなったので、古い喫煙可能な喫茶店には行けなくなった。代わりに増えたのがドトールやスターバックス、タリーズといったコーヒーショップのチェーン店だ。これらの店は、喫茶店というよりもコーヒーショップだし、余暇の時間を過ごすというよりも、ビジネス臭が漂う。まあ、その分、明るくて仕事はしやすい。
というわけで、スターバックスにいる。仕事をしにくることもあるが、今日は買ったばかりの本を読みたくてここにいる。ここにいるけれど、読み始めた本はずっと1ページ目の1行目から5行目あたりを行ったり来たりしている。集中できないのだ。お隣に僕よりも少し年下とおぼしき女性が座って、ずっと電話で話している。その声がバカデカくはないのだが、普通に家で電話をしているくらいの音量なのである。はっきり通話内容がわかるほどでもないし、まったくわからないほどでもない。それもあって、本の内容に集中できないのだ。
こういう時の秘密兵器を僕は持っている。ノイズキャンセリング機能付きのイヤホンだ。これをつけると周囲の音とは逆位相の音を瞬時に作ってぶつけ合い、静かな環境を作り上げるという画期的なアイテム。昔からあるんだけれど、いまは飛行機じゃなくても、こういう場所で仕事をすることが多くなったので、僕のような特定の仕事場を持たない人には必需品なのかもしれない。
とても静かな環境を手にいれ、僕は本を読み進める。すると、今度は逆にまた隣の女性が気になり始めたのである。なぜなら、目の端にたまに入ってくるその女性の表情が実に険しいのだ。喧嘩でもしているのだろうか。気になりすぎて、心の中でその女性の表情に合わせて、話している内容を考えてしまうようになった。
「あなたは、どうしてそうなの」「あなたが間違っているにきまっている」「とにかくお金を返して」「よくそんなにとぼけていられるわね」「私は悪くないわ」「ふざけないで」「なによ、難癖つけないで!」とまあ、僕が勝手に想像する女性のセリフに、彼女の表情に合うのだ。僕はもうすっかりそのつもりで、女性の言葉を想像しながら、女性の顔を盗み見ている。間違いない。この人は電話で喧嘩しているのだ。
とはいえ、それは僕が女性の表情から想像していることだ。実際はどんな悪態をついているのだろうかと、そっとイヤホンのノイズキャンセリングをオフにしてみた。すると、周囲のノイズが入り込み、同時に女性の声も聞こえてきた。驚いた。というか、信じられなかった。喧嘩などしていないのだ。
「わかったわ。ありがとう。今度来るときはもっとゆっくりきてちょうだい。うん、うれしかった、ありがとう!」と女性は電話を切ったのである。なんとなく、自分の子供か孫と話している感じなのである。しかし、女性の表情はさっきと大きく変わっているわけではない。眉間に皺はよっているし、声のトーンだって、なんとなくきつい。きついけれど、いまはちょっと苦労してきた女性が、なんとなく生活が落ち着いてきて、子供か孫との時間を楽しめるようになりました、というふうに見えるのである。
いや、さっきまでのアテレコは、確かに僕の勘違いというか、勝手な思い込みなんだけれども、なんとなく、広いパラレルワールドの宇宙に放り出されたような気持ちになってしまったのだった。狐につままれた感じというか、なんというか…。ということで、もう一度、イヤホンのノイズキャンセリングをオンにする。そして、もう一度、隣の女性の表情を盗み見る。そこには…。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。