寂しいなあ、という心持ち。
夕方、乗り物から降りたときに、ふと足が止まってしまうことがある。東京だと都電荒川線を降りたとき。兵庫の実家だと市バスを最寄りのバス停で降りた瞬間。昼間だったり、すっかり日が暮れた夜だったりするとなんでもないのだけれど、夕方というのが曲者である。
都電やバスに揺られて、最寄りの駅やバス停に着いて、西日が差すなか歩き始めると、とても寂しくなってしまう。子どもの頃からずっとだ。なにがあったわけでもないのに、無性に寂しくて泣き出しそうになる。最初にそのことに気づいたのは幼稚園くらいだっただろうか。その頃は、電車やバスに乗るのも家族一緒だったはずなので、一人だったはずはない。
記憶の中でも、ちゃんと父か母に手をつながれている。それなのに、傾いた日差しの中でなんだか泣きそうになっていた記憶だけが鮮明に残っている。そして、それがいまだにあるのだ。しかも、定期的に。特に冷たい風が吹く季節になるともういけない。本気で泣きそうになる。
僕のこの妙な心持ちはヨメにはばれていて、「あんたなあ。仕事もちゃんとある。家族もおる。なんの不自由もないのに、なんちゅう顔してるねん」とか言われる。まあ、そう言われても、わざとそうしているわけでもないし、自分でも困っているのだからどうしようもない。
うちのヨメに「きみは、そういう感じになったことはない?」と聞いたことがあるのだが、言下に「ないっ」と言われてしまった。「疲れることはあっても、寂しいなんて思ってる暇ないわ」と笑われるのだった。
まあ、そんなことを聞けるのは長年連れ添ったヨメくらいのもので、他人様に聞ける話ではない。いきなり、還暦を過ぎたおっさんに「ねえ、寂しいとか思う?」なんて聞かれたら気持ち悪いもんねえ。
ということで、最近はふいに「寂しいなあ」という気持ちが内から湧いてきそうになると、「はい、よく来られました」とか挨拶をするようにしている。挨拶しても寂しい気持ちにかわりはないのだが、なんとなく情けない友だちと道ばたでばったりあったような気分になって、寂しさにちょっとした哀れみとかおかしみが加味される気がするからだ。どこかで、似たような気持ちになる人がいたら、「おたがい、なかなかしんどい性格ですねえ」と会釈くらいは交わしたいと思う今日この頃である。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。