ゾロメ日記 NO.65 極私的 映画のこととか本のこととか
◆2月某日 映画のこと
『この世界の片隅に』と『君の名は。』、どちらも昨年から見たいと思っていたのだけれど、夫の父の病気もあって、映画館に行ける状況ではないと思って諦めていた。
が、1月下旬から家の近所の映画館2館で同時期に掛かると知り、そこなら行ける!やったー!と思った。
が、ちょうどその時期にかぶさるように義父がきわめて重篤な状態になり、「今日明日が峠」的事態が頻発し、やっぱりムリか、とまた諦めた。
が、義父は恐るべき底力を発揮して奇跡的に持ち直し、意識は不鮮明ながらも重篤な危機を脱したので、2本を立て続けに観てきた。ちなみに、義父は2月中旬に重症患者用の個室から相部屋に移った。必ずしも快方に向かっているわけではないのだけれど。
『この世界の片隅に』は、日常に介入した戦争という非日常が、徐々に人々にとっての日常になる残酷さと、そんなものすら日常にする市井の人間たちのたくましさと懐の深さを、序盤は、ぼんやりした、ちょっと見はかなげで頼りない少女すずの後ろに隠れて擬似体験している感じだった。
ところがすずは、徐々にというか、一気にというか、底知れぬ存在感を放ち、安定して見え、彼女のいる世界がなんだか心地よくさえ感じられた。
でも当然ながらそんなわけはなく、いや増す過酷さにすずも翻弄され、此の世とあの世の境目で幻惑される瞬間もあったりして、観ているこっちも、片隅という世界の只中に不意に丸腰で抛り出されるような恐ろしさと心細さを覚え、同時に、それでもまぎれもなく「在る」日常になんだか茫然としてしまった。
能年さん(“のん”とは恥ずかしくて呼べない)が素晴らしい。
今「在る」日常はなんて儚いんだろう。ぜんたい、人は失ったものをどこに置いて生きていくのだろう。この映画は、失ったものの場所探し、のような気もした。
戦争の時代も、一見平和そうに見える時代も、生きることは失い続けることなのだなあ。あらためて、自分が失ってきたものを想う。いのち、モノ、気持ち、場所…。日常で失った数多のあれやこれやは、自分だけの在り場所を日常に設置して、日常でよすがにするしかないのかもしれない。
『君の名は。』には驚かされた。公開からだいぶ経って観たのに、予備知識が「高校生の男女が入れ替わる」だけだったのは幸運であった。観ている間も後も、時系列をきちんと理解できてない気がするが、でもまあ別にいいや、うわっ!うわあー!!となったんだから、と雑に括る自分がいて、そのわりに、残った気持ちは存外に繊細なのがわれながらおかしい。
もう一回見たい。良かったからじゃなくて(いや、良かったけど)今度はじっくり細部を見たい。サイトやウィキペディアもチェックしたけれど、やっぱり本編でいろいろ腑に落ちたい。
◆2月某日 本のこと
『なずな』(堀江敏幸/著)を読む。
この著者は、2001年の『いつか王子駅で』が好みだったのに、それ以降、読んでいなかった。『なずな』もずっと気になっていたのだが、ちょっと分厚いし、そのうちに読もうと思って早5年強。あらま。やっと読んだ。
手にとるまでは長かったが、読み始めてからは一気だった。特にドラマティックな展開はない。訳あって弟夫婦の生後二ヶ月赤ん坊を預かることになった中年独身男の日常が描かれるだけで、描かれる期間も短い(小説は長いけど)。その分、日々の描写は克明だ。
この小説を読んで、小泉今日子が読売新聞の書評で取り上げて話題になった『四十九日のレシピ』評を思い出した。
「四十歳を過ぎた私の人生の中で、やり残したことがあるとしたら 自分の子供を持つことだ。時間に限りのあることだから、ある年齢を過ぎた女性なら一度は真剣に考えたことがあると思う。家族の再生を描いた心優しいこの物語を読んで、私はそんな思いから少しだけ解放された。」 (『小泉今日子書評集』より)
私にとっては、『四十九日のレシピ』より、『なずな』の感想がまさにこれだ。血の繋がらない周囲の人が寄ってたかって、でも表面上はクールに、子育てに参加する展開は、子どもを持たない自分が思い描き、20年前に、友人がシングルマザーになったときにほんの少しだけ経験した「なんちゃって子育て」を彷彿とさせられた。
20年前、自分はまだ子どもを持つには遅すぎる年齢ではなかったかもしれないが、いろいろあって(思わせぶりでスミマセン)疲弊していた。そんなとき、「いろいろあった私」にいちばん寄り添ってくれていた年上の未婚の友人が妊娠した。私は正直、複雑な気持ちになった。
でも、赤ん坊の顔を見たら複雑さはほどけて一気にシンプルになり、少し離れた街に住む友人のもとに足繁く通うようになった。あのときの自分は、興奮というか高揚していたのだと思う。リアルタイムの心情を、当時雑誌『CREA』で開催されていた【CREAコラムグランプリ】に書いて送ったところ、大賞を受賞した。あれは完全に勢いの賜物だった。
授賞式が始まる前に、品のいいオジサンが私に近づいてきて「親だけが子育てをするのではない社会はいい」的なことを言ってくれて、我が意を得たり!とうれしくなった。社員たちが「アンドーさん」と気軽に呼ぶその人が社長だとわかったのは、授賞式が始まってからだった。
『なずな』を読んで、そんなもろもろを思い出した。
※今回の日記を書いた翌日に義父は永眠しました。93才でした。前半の部分を書き直そうかとも思いましたが、この但し書きだけを添えて、そのまま更新します。
by 月亭つまみ
★毎月第一木曜日は、まゆぽさんの「あの頃アーカイブ」です。お楽しみに!
江ノ島カランコロン
つまみさん お悔やみ申し上げます
つまみさんの 介護も含めた丸ごとの日常を描いていただき
ありがとうございます
なんと申し上げたらよいか言葉が見つかりません
Naomi
お父様も頑張ったけど、つまみさんも相当頑張ったと、記事を読んできて、本当にそう思います。
お父様は、もうすぐ来る春よりも、もっと光り輝く鮮やかな地に旅立たれたのでしょうかねぇ。
お見送りも大仕事だと思いますが、どうか穏やかに過ごされますように。
心よりお悔やみ申し上げます。
アメちゃん
つまみさん。
目を悪くされたお義父さまがお散歩をしてる後ろ姿や
(おそらくそんなに絵を描かれる方じゃなかったのでは、、と思われましたが)
一生懸命描いた愛犬の絵が思い出されます。
心よりお悔やみ申し上げます。
mikity
つまみさん、
ご無沙汰しておりますm(__)m
恐るべき底力を発揮され続けたお義父さま。
感服いたします。
お義父さまのご冥福を心よりお祈りしております。
頑張り続けたつまみさんも、
お疲れがでませぬようくれぐれもご自愛下さい。
まぁ
何年も義父母様の記事を読ませていただいていたので一読者ではありますが寂しく感じます。
今しばらくお忙しいとは存じますがどうぞお身体お大事に。
お義父様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ご家族の皆様が一日も早く心穏やかに暮らせますように。
つまみ Post author
江ノ島カランコロンさん
ずいぶん弱音や愚痴を書いてしまったなあ、情けないなあと思うことも多かったので、そう言っていただけると救われます。
こちらこそ、本当にありがとうございます。
もう頑張らなくていいよ、と思ったりもしたくせに、いざ、逝かれると「なんでー?!」。
人間、勝手ですよね。
つまみ Post author
Naomiさん、ありがとうございます。
Naomiさんにいただいた目のお守り、本当にうれしく、父に「お友達がくれたんですよ」と言って握ってもらったこと、忘れませぬ。
今、父の世界が色鮮やかで明るいことを願います。
つまみ Post author
アメちゃんさん、ありがとうございます。
ずっと、義父の後ろを歩いて散歩に付き合ったので、後ろ姿がありありと浮かびます。
あの犬の絵、几帳面さと拙さと一生懸命さがないまぜになって、いかにも義父らしいです。
マロに会えたかなあ。
つまみ Post author
mikityさ~ん!お久しぶりです。
ありがとうございます。
底力、あんまり発揮したので、死なない人なんじゃないかと思いました。
こちらが覚悟しているときは復活して、ちょっと気が緩んだら逝っちゃいました。
病院に行くのが日課になっていた夫が、手持ち無沙汰にしているのがなんだか切ないです。
つまみ Post author
まあさん、ありがとうございます。
そんな風に言っていただけて、とても光栄です。
物理的な忙しさに追われて、悲しむ余裕もない…というのを想定していたのですが、葬儀関係の日時が遅く、忙しさも中途半端です。
あ、確定申告!
…気づかなかったふりをしよう。
凜
こんばんは。いつもつまみさんの記事を楽しみに拝読してます。
「なずな」読もうと思いました。(「四十九日のレシピ」は早速読みました! )
私は自然にまかせて子供には恵まれなかったのですが、妹は30代後半で不妊治療をして授かり、その子が生まれた時からしばらく実家で母と私と妹と、共同作業のように赤子の世話にしばらく明け暮れたことがあります。沐浴やおしめ替え、夜中にミルクを作って飲ませること、もろもろがその子の頼りない柔らかさ、温かさとともに思い出されます。ただただその子がいとおしく抱っこしているだけでこれまで経験したことのない嬉しさ・喜びを感じました。(その点では「朝が来る」(辻村深月)のほうが近いかもです。)自分の子供ではなくても、この経験ができたことはとても大きなことでした。つまみさんのおっしゃること、ものすごくわかります!!
つまみ Post author
凛さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
凛さんの経験、まさに『なずな』のワンシーンのようです。
お読みになったら、感想を聞かせていただきたいです。
自分が強く望んだことだけではなく、特に望んだわけでもなく飛び込んできたことでも、かけがえのない経験になっていることってありますよねえ。
そういう経験をしたりしなかったりが、両極ではなくて、歩み寄って混ざり合って、もっと境目がなくなれば、人も社会ももうちょっとラクなのではないかと思うのは短絡的なんでしょうか。
共同作業って、よく考えると、高度でかっこいい言葉のような気がします。
凜
つまみさんこんばんは。
「なずな」読みました!
ジンゴロ先生や瑞穂ママ、周囲の人々のあっさりしているようで実は熱いと言っていいような気持の向け方、しみじみとよかったです。ほんとに赤ちゃんてひとをひきつけますね。
ラストの友栄さんとの淡いけれど確かな気持ちのつながりを感じさせるシーンも、大人な感じでとても素敵。とにかく文章が淡々としている分グッとくることがとても多くて。
赤子といっしょにいることで気づくことや見えてくることってたくさんありますね。世界が全然違って見えてくる。知らなかった扉が開くような。そして周囲の人との距離感がとても近くなる。私は秀一さんほどのたいへんさは経験してないですが、やっぱりこどもって一人ではとても育てられない、周囲の人の大なり小なりの手助けがあってこそだなあ・・・ということはすごく感じました。(秀一さんの初めのほうのあの眠たさ、めっちゃわかりました。ほんと世のお母さんは偉大です。)「そういう経験をしたりしなかったりが、両極ではなくて、歩み寄って混ざり合ってもっと境目がなくなれば、人も社会ももうちょっとラクなのではないか」本当にそうですね。些末なことでも、たとえば駅の階段でバギーを持つお母さんにさっと手を貸すとか、あの大変さを知っていれば自然とやってしまうことですし。
それにしても、なずなの様子や成長の描写のリアルさが、体温を感じさせますね。甥っ子と重なって笑ってしまって。何度でも読み返したい本でした。ありがとうございました。
つまみ Post author
凛さんこんばんは。
感想を教えてくださって、ありがとうございます!
読んだ本の話をやりとりできるって、考えてみるとすごく贅沢なことですね。
ラスト、いいですよねえ。
人の気持ちや想いなんて、言葉や態度ではっきり表明される部分はわずかで、むしろ、あいまいだからこそ確かなこと、もありますよねえ。
そして、私はよく「想像力のあるなし」を言葉にしがちなんですが、それは自分に欠けていると自覚しているからかもしれず、だとしたら、人のそれにも不安定なものを感じていたりするのかもしれません。
だからこそ、『たとえば駅の階段でバギーを持つお母さんにさっと手を貸すとか、あの大変さを知っていれば自然とやってしまうことですし。』にある、経験値のある揺るぎなさにホッとします。
本当にそうですね。
眠たさや体温もそうですが、実感と想像力が重なると相乗効果でグッと来る気がしました。
なんだかとりとめもない文章で申し訳ありません!