30年ぶりの電話に思う、「寂しさ」のシェア&「よもじ猫」リニューアル
6年前の今ごろ、ブログに「『寂しさ』の呼吸が合う、幸せ。」という文章を書きました。そのあと、読者の方がメールかなにかで「この記事がすごく心に残ったので妹に見せたんです。そしたら、『はあ?どこがいいかわからん。お姉ちゃん、ちょっと精神的に参ってるんじゃないの?』とおかしな人扱いをされてしまいました」と教えてくれました。
ことほど左様に「寂しさの呼吸」は合いにくく、「寂しさの語り口への好み」も合いにくいのです。寂しさの取り扱いは、なかなかにして繊細さが求められるのですね。
先日、約30年前に仲がよかった男友だちから突然、電話をもらいました。当時は、ふたりであちこちの劇場や美術館に行きました。ありとあらゆる作品を見て、偉そうに批評したり、生意気な感想を述べあったりしていたのです。気兼ねなく、何時間でもいっしょにいられる友だちでした。
その彼が30年ぶりの電話では、昔を懐かしむだけでなく、今の暮らしについてタガがはずれたように語りつづけました。寂しいんだと思いました。寂しいんだ。あらゆる意味で寂しんだ。ときに励まし、ときに昔の姿をほめ、今のがんばりをほめて会話を終えましたが、やっぱり、「寂しさの呼吸」が合うのは難しいと思いました。
わたしが寂しいとき、相手は寂しくない。
相手が寂しいとき、わたしは寂しくない。
いや、わたしも寂しいけれど、
無防備かつ無制限な発露につきあうのは、つらい。
寂しさの無防備な発露には、それが大人ならば特に、長年の間にクセになってしまった対人的な甘えや鈍さがにじみ出ます。
寂しさも孤独感もそのままではシェアできない。みんな自分の寂しさの世話で手一杯。他人の寂しさまで世話できない。世話より、シェアできる楽しい何か、気楽ななにかを差し出したほうがいいのだ…と、無防備そのものの行き場のなさが寂しさを募らせますが、そう思ったほうがいいと思います。
わたしにとって、このオバフォーも自分の感情をシェア可能なものにして差し出す何かなんだと思います。ブログにも、この月曜の記事にも寂しさがギュッと詰まっているかも。…というか、きっとそうだな(笑)。いつもつきあってくださって、ありがとうございます。
よもじ猫が、トップページの目立つところにお引越ししました。パソコンでも、スマホでもすぐに目に入る場所です。再読み込みするたびに、新しい猫ちゃん画像に変わるので、何度かアクセスして見てもらえるとうれしいです。
こちらから、写真と四文字熟語を投稿できます。「うちの超かわいい猫の写真はたくさんあるけど、四文字熟語を考えるのが面倒なのよねー」という方は、写真だけでもOK!つまみさんとミカスさんがどんな言葉をつけようかと手ぐすね引いて待っているので写真だけホイと気楽に投稿ください。お待ちしています。
今日は、ゆみるさんの「黒ヤギ通信」。うん、やっぱりゆみるさん、目のつけどころがシャープ、じゃない、ボールペンだね(笑)
アジサイ
30年ぶりの電話ってかけるにも勇気がいったことでしょうね、その年月を超えるだけの口実が必要だったろうと思います。私は引越しが多いので、友達とは最後はメールだけになって終わるということが多いのですが、最近最後のメール友達に切られました。理由はいくつか思い当たりますが、私の寂しさの発露が正直すぎて無防備で無制限だった、というのが一番の理由でしょう。最初は励ましてくれていたけれども、私がアドバイスに従わず同じことを何年も愚痴っていたので疲弊したのだと思います。そんな私とつながっていてくれるのは寂しくて暇で達観してらっしゃるおばあさんたちだけです。物忘れもはいってらっしゃるおばあさんたちに、同じ苦い思い出を繰り返し語られ、我が身を見る思いです。一緒に何かしながら話の中にちょこっと寂しさを漏らすとか、文で語るなら暴れくるう生身の感情を精製して一般的な共感を得るくらいのフレームに納めるくらいがいい。そうして、下手に謝るより相手の無言を尊重すべきなんだろうな。
カリーナ Post author
アジサイさん
いやあ、そこまで客観的に自身とその状況をご覧になれているなら、無防備&無制限ではなかったのでは??もし、アジサイさんのその知性とユーモアをもってしてもなお、無防備&無制限だったとしたら、それは、やむを得ぬ事情、やむにやまれぬ思いがあってのことでしょう。仕方ないです。
乳幼児のように無防備&無制限に感情的に暴れまくりたいところですねえ。しかし、乳幼児にそれが許されるのは、最後に「いいかげんにしなさい!」と一喝されるという結末があるからこそ。大人に、それは、なかなかできませんからねえ。自制が求められるのでしょうね。寂しく、やるせないものです。
しかし、<下手に謝るより相手の無言を尊重すべき>、まさしく、その通りだと思います。沈黙は強烈な主張ですもんね。わたしも、沈黙されたら静かに去るようにしています。お互い、寂しさとほどほどにうまく、ときには流されながらやっていきましょう。
kokomo
ああ、特に「寂しさの無防備な発露には長年の間にクセになってしまった
対人的な甘えや鈍さがにじみ出す」というところがグサグサ刺さります。
去年個人的に辛いことが続いたこともあって、寂しさの垂れ流し状態でした。
相手は主に友人ではなく家族だったので最後は「いいかげんにしろ!」と
一喝されて終わったのですが、これが友人だったら確実におさらばされていたと
思います。友人には小出し&分散させていたつもりでしたが、それでももしかして
重く感じていたかもしれません。
このウェブサイトに出会って、たいていの人はうっすら寂しいんだ、と
気付けたことは儲けものでした(カリーナさんありがとう!)。
寂しさをうまく飼い慣らす術を見つけていきたいものです。
カリーナ Post author
kokomoさん
一喝されて終わったというところにkokomoさんご家族の健やかな関係が浮かぶようです。
相手に重く感じさせるかもしれない「寂しさの垂れ流し」について考えるとき、私は、自分の基本的な冷淡さをイヤだな、と思うことがあるんです。寂しさの発露にとことん付き合わない、どこかで突き放してしまう自分。「それが大人でしょ」という見方もあるかもしれませんが、世の中には、他者の哀しさや寂しさに凝りずに、自然に付き合う人もいますよね。そういう人に比べて本質的な優しさに自分は遠いなーと思うのです。
生い立ちがかすかに寂しかったりする人には、その本質的な優しさがある場合が多いと思います。優しさって、どこか穴が空いたり、欠けたりしてるんですよねー、きっと。
>このウェブサイトに出会って、たいていの人はうっすら寂しいんだ、と
気付けたことは儲けものでした
うれしいです!わたしは、今日も寂しいです。