【月刊★切実本屋】VOL.14 自作自演のイバラ道
ずっと、児童書界隈、特に絵本が苦手でした。嫌いではなく苦手。でも、2014年度から小学校図書室司書のパートを始めたので、そうとばかり言っていられなくなり、少しは近寄るようになって4年強の月日が流れました。
現在も得意ではありません。こども時代に往年の名作をあまり読んでこなかったので、下地がないという意味での苦手さもあります。では「前より好きになったか?」と問われると、もともと嫌いとは思っていないので「別に」と答えるしかありません。
児童書界隈が苦手なのではなく、「絵本(こどもの本)!大好き!」と目を輝かせる大人が苦手なのかもしれません。いや、「絵本(こどもの本)!大好き!」と目を輝かせる大人が苦手というより、「大人が喜ぶことを見越したような絵本(こどもの本…もういいか)」が苦手なのかも。
そういう絵本はなにかと「絵本の代表選手」のようなポジションにいるので、絵本に造詣が浅い人間(わたし)は、その手の本に漂いがちな「絵本だけど深いでしょ」的うさんくささが、あたかも絵本業界全体のうさんくささに思えて、つい、じりじりと後ずさりしてしまうのかもしれません。
そうは言っても、わたしはもう立派な大人で(年齢が。精神ではない)、仕事も仕事なので後ずさってばかりもいられず、イベントや図書だよりのために本を選ぶ日々です。
でも、いくら「これ、○年生ぐらいがおもしろいんじゃないか」と思っても、それはあくまでも中年のわたしが思う○年生のイメージ前提であって、○年生自身とはズレている…どころか、的っぱずれの可能性もあるわけです。そもそも○年生自体が一枚岩などでは全然なく、こっちの○年生とあっちとでは、好みも理解度も違っています。当然です。でもそんなことを考えたら本なんて選べない。
で、選べないよなあと自覚し、逡巡するとどうなるかというと、正しい大人は勉強します。
絵本、児童書を片っ端から読むことは当然で、専門誌や児童心理の本なんかも手に取り、勉強会や研修などに参加したりします。この分野は奥深く(どの分野も門外漢から見ると奥深いけれど)現場、専門職、管理者、研究者、ボランティアなどいろいろな立場の人が皆、一家言も二家言も三家言もあるツワモノぞろい。なので、たぶん、どこまで頑張っても前を歩く人ばかりです。
もちろん、先頭に立つことが目標ではないので、それでいいのですが、常に誰かの敷いたレールの上をありがたがって従順に進むような勉強は、情報や知識や技術的なものは増えても、「本なんて選べない」という気持ちにはあった、レールのないイバラの道特有のゴツゴツした感触は消える気がします。そんな感触、要らん!という向きもありましょうが、どうもわたしには、その感触が必要らしいのです。
そしてもうひとつ。児童書や絵本を勉強という視点で見ると、わたしはどんどん、それらと大人向けの本を分けて考えるようになるみたいです。読み手の年齢が違えば、本に違いがあるのは当然だという考え、そのとおり!…と言いたいところですが、本当にそうなのでしょうか。こどもたちを見ていると、そうでもないことも多いように思うのです。あ、もちろん装丁やルビ的な工夫は必要ですけど。
そんなこんなを言い訳にして「勉強はしない」という道を行く、正しくない大人、それがわたしです。あえてしないのは苦行です…というのは嘘です。ラクです。ただ、やることなすこと、穴だらけ。ハッタリやごまかしでは補いきれないボロを露呈しまくる日々です。それを恥じる人、パートとはいえプロとしてはあるまじき醜態、と思う人にはオススメしません。あ、あたりまえですか。
読書はわたしの趣味です。単なる趣味。それは公共図書館にいるときもそうで、今もそうです。もし、今の仕事に自分なりの希望があるとしたら、人間にはいろいろな時間の過ごし方があるけれど、本を夢中になって読んでいるときにだけ味わえる、前のめりに本を持ち、フライング気味にページをめくる時間を多くのこどもたちにも知ってほしい、できれば大人になっても無防備にやっちゃってほしい、ということぐらいです。
楽しいという自覚すらない、あの奇妙な時間は、本が、宇宙も飛び出すような別世界に自分を連れて行ってくれている時間です。人は、文字の連なりだけでどこにでも行けるのだと思っている方が、いろいろなことから自由になれる気がするのです。
わたしは、絵本、児童書、はたまた本全般に詳しい司書などでは全然なく、自分がそそられた本を読むことにしか興味のない司書なので、その方向からしか今の仕事は続けられないようです。開き直りか。開き直りだな。じゃ、ついでに、給料上げろ!待遇改善!
最近、ナルニア国物語を読み始めました。まだ「ライオンと魔女」「カスピアン王子のつのぶえ」の2冊しか読み終わっていませんが、義母の見守りが退屈じゃなくなりました。ひゃっほー!
by月亭つまみ
◆木曜日のこの枠のラインナップ
第1木曜日 まゆぽさんの【あの頃アーカイブ】
第2木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 月刊 切実本屋】
第3木曜日 はらぷさんの【なんかすごい。】
第4木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 やっかみかもしれませんが…】
まゆぽさんとの掛け合いブログです。→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」
ほっこり
実は私も絵本が得意ではありません。
絵本が好きでないと、邪悪な心の持ち主のような気がしてましたが、つまみさんの文を読んで少しホッとしました。
読み聞かせを少ししていますが、大人の選んだ本が必ずしも子供に受けるとは限らないですしね。
また大人が子供の頃を思い出して書いている、というのもあります。
その点、「さよなら田中さん 鈴木るりか著 」は12歳の子が等身大で書いていて、直球で響きました。
つまみ Post author
ほっこりさん、こんばんは。
ほっこりさん、と書くだけでほっこりします(^-^)
そこなんです。
絵本に対してネガティブなことを言おうものなら、邪悪な人間扱いにされる風潮が苦手です。
ま、わたしは実際、邪悪なんですけども。
「さよなら、田中さん」。知りませんでした。
平成15年生まれの作者!!
もはや、こないだ、です。
そうですか。響きましたか。
私も読んでみようかなあ。
爽子
こんばんは~。
わたしは子供たちに読み聞かせをしてこなかったので、絵本もあんまり知りません。
ナルニア国も「ライオンと魔女」のみ。
今日たまたま孫の誕生日に贈るために、Amazonで、絵本を物色していて
江國香織さん訳のおやゆびひめを見つけました。
わたしが絵を見たい。。。シックな色使いなので、小さい子が喜ぶか不明ですが。
子どものころって、どんな本を読んでたのか・・・。
印象深いのは、三冊組になった「かみさまのおはなし」
全部ひらがなだったように思います。
古事記の内容で。
絵がぶっとい筆でいきなり描いてある感じの破壊力のあるものだったように記憶しております。
つまみさん、アジサイが美しい。。。
はらぷ
>人は、文字の連なりだけでどこにでも行けるのだと思っている方が、いろいろなことから自由になれる気がする
って、ほんとうにいい言葉だなあ。
つまみさんのいる学校の子どもはしあわせだと思う。
「前のめりに本を持ち、フライング気味にページをめくる時間」を知っている、そし今もやっちゃっている大人が目の前にいるわけだから。
つまみさんがいうところの「絵本の代表選手」っていうのがどういう絵本を指してるのかわからないけど、絵本からすぐ何かメッセージを読み取ろうとする、またそういう絵本をよい絵本としがちな絵本業界のうさんくささってほんとうにある。
かと思うと、逆にふりきれて「子どもが大爆笑!」みたいなのとか、はたまた「がんばるママ」のための本じゃん…とか…。
「絵本だけど深いよね」とか「絵本だけど考えさせられた」とか安易に言っちゃう人には、赤羽末吉のかのエピソード、
「つるにょうぼう」の絵本を頼まれた赤羽末吉が、機織りだの着物だのを調べ続けて6年もの年月がたち、編集者に問われて「だって相手は子どもなんだぜ」と答えた、
という話を知ってもらいたいです!!(←急に燃え上がる)
えーと私はご存知のとおりばりばりの「まずは基本書派」なんだけど(笑)、いっつも思うことは、桃子も亨子も李枝子も、絵本はまず楽しくあるもの!子どもはめちゃくちゃな生きものです、って言っているのに、どうして多くの人は絵本から「具体的な何か」を学ぼうとするのでしょうね…。
それこそ、「誰かの敷いたレールの上をありがたがって従順に進むような勉強」をしているからじゃないのかしら。
まじめなんだなあ。
それに、「これがおすすめ」と言われたからって、自分がピンときてなかったらうまくいきっこないし、じっさい目の前の子に手渡すまで「茨の道のごりごり」なわけで、同じ子が、学校でみんないるときと、ひとりで図書館に来たときとでは、欲する本も違うのに。
そういう方面に「熱く」絵本愛を語る人々によって、その絵本自体が「基本書=説教くさい」という色眼鏡をかけられてしまっているとしたら、いやだよねえ。
でも、そういうのが絵本界隈の王道だ、とは思わない。
みんながありがたがるような児童文学界の巨人って、ほんとはみんな、はみだしっこのまっくろけだぞー、って思う。
突然熱く語ってみた。はッわたしがめんどくさい人か!!
つまみ Post author
爽子さん、わたしは人生初で読んでます、ナルニア国物語。
ファンタジー、あまり得意じゃなくて、ロードオブザリングもハリー・ポッターも指輪物語も読んでないんですよねえ。
モモも、人がいうほど面白くなかったし(小声)。
タイム・マシンや十五少年漂流記は好きだったんですけどねえ(^^;
最近の読み聞かせで、こちらの予想のはるか上を行くという意味でやたら反応がよかったのは『なんのぎょうれつ?』です。
細かい動物の言葉をじっくり読みたくなるのかもしれませんが、奪い合いでした。
…奪い合いって(^^;
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%8C%E3%81%A4-%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%83%BB%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%97%E3%82%87-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A9-%E3%83%88%E3%83%A2%E3%82%B3/dp/4591110796
つまみ Post author
はらぷさん
わー、熱く語ってくれて、うれしいです!
ラクをしてる人間の勝手な言い訳で、しかも言葉足らずなのに、そうそう!わたしが言いたかったのはホントはそうなの、がたくさんあるコメントで感激してしまった。
ところで
ぎくっ!
長いこと、絵本や児童書の基本書=説教くさい、という色眼鏡で見ていたかもしれないひとりです。
ごめん。(反省が軽い?)
話は変わりますが(変わるのか)、ナルニア国物語を読んでて、たとえば、同じきょうだいでも、男子のピーターとエドモンドに求める行動と、女子のスーザンとルーシーへのそれは違って描かれていたり、動物に対しても、口を聞けるのは仲間で、ただ襲ってくる熊は獲って食っちゃうわけで、それは、この話が書かれた時代…どころか、つい最近まではあまり気にされてもいなかったし(誰も気にしてなかったとは言わないけれど)、そういう社会通念の変化がどんどんあるのに、絵本や児童書は、わたしが生まれる前に出版されたものなんかが、今もふつうに、別に「往年の名作」というんでもなく読まれているのがあ、大人の本とはずいぶん違いますよね。
訳も変わらなかったりして。
そういう作品、びっくりするほど多い印象。
それはいいことでもあって、魅力的なおはなしなのに、時代が変わったからといって価値が下がるのはおかしい、というのは「正論」と言うのもバカくさいくらいあたりまえだと思います。
でも、それが「基本書」として幅をきかせすぎると、新しいものの居場所がいつまでも拡がらず、なんか一家言界隈に「変わらないことこそ価値がある」的になってる人がけっこういるのには、ちょっともやもやするのです。
私だけなのだろうか。
読み聞かせとか、ブックトークの指南書的なもの、取り上げる本がものすごくカブっているのも、その流れを感じます。
ふつう、あっちこっちのガイドブックに出ていたら「よほどドンピシャなんだな」と好意的に解釈しそうですが、こうも多いと、「みんな、基本書に頼りすぎてんじゃないの?このテーマでこれ出しときゃ、そこそこ『わかってる人』と思われるから。ラクすんじゃねーそ!」と思ったりします。
かくゆう自分だって、急に本の紹介を依頼されたり、とっさの判断を迫られたりするときは「基本書」に頼っているわけですが。
なんかこれって、お笑いの世界で、さんまとかたけしとかダウンタウンとかがいつまでも第一線で、そのちょっと下の中堅世代も含めて、その分野のほとんどを牛耳っているから、それより若手の入り込むスキがちょっとしかなくて、いくつになっても「若手」枠でいるしかない、本当の若手が育たないと言われてしまう、に似ている気が…しないですかね(^^;
児童文学界の巨人、ホントにすごい人が多くて、こどもが見えてて、むしろ教条主義とかじゃなくて、いろいろな経験をちゃんと作品に出せて、しかも高齢になっても第一線の人がいっぱいいて、素晴らしいけれど、児童文学界の中堅や新星やひよっこも、巨人と同等の活躍をしてほしい。
ヨシタケシンスケさんだけじゃなく。
自分がそのための末端構成員としての意識を持てよ、と今思いました。
天に唾した。
はらぷ
うおー(たびたびすみません)!首をぶんぶん振りたい(肯)ことがたくさん書かれすぎていて興奮しました。
>末端構成員としての意識を持てよ
ドキー!これは私も刺さるなあ…。
巨人が大きすぎるのってほんとうやっかいかもしれないですね。
とくにあの巨人たちは、殿堂にいる巨人じゃなくて、わりとすぐそこにいる巨人なんですよね…近くにいて触れる巨人。
だからみんな大好きになりすぎて、追いかけすぎて打ち破れなくなる。
あと、たとえば今長新太や片山健があらわれたら、私は気付けるかなあ、ということをよく思います。
新しいものに心をゆさぶられる柔軟さが自分の中にちゃんとあるだろか。
なんか、子どもの本の世界で「基本書」というのがこんなにも幅を利かせているのは、たぶん子どもの時間は有限だから、ということもあると思うんです。
短い、限られた子ども時代に、ぜひ出会ってほしいと思う本(っていうことじたいがおこがましいな、とも思うんだけど)、と思うと、ロングセラーに勝るものがなかなかない、という気持ちはあるかも。
ブックトークの本かぶりすぎ問題も、そういう一面はあるのかなと思う。
でも、圧倒的に新しい本を読んでいないな、基本書さえ読んでりゃいい、という人もたしかに多い!
最近、ロングセラーを読みなおしてみる勉強会っていうのに行きはじめたんだけど(っていうか私には初めての本もいっぱい)、いわゆるバイブルみたいなリストに載ってる本でも、なんで今もこれ載せ続けてる…?っていうのがけっこうある、と参加している大先輩が言っていました。
あと、去年まで職場の記念誌作るので古い図書館報とかあさってて、40年前のおすすめ本リストが今と変わんねえ!っていうのにやっぱり驚いたし、これでいいのか…って密かに思ったところだったのを、つまみさんが指摘してくれた感じ。
社会も、子どもを取り巻く環境も変わるのに、本だけは変わらない、それでいいわけないだろうと私も思うー。それが「今」を描いている作品だった場合はとくに。
「ナルニア」も、そうそう、賢さはみな自分たち(人間)の側で、野生のほうは「畜生」(←語弊)みたいなね!
男女の価値観や役割的なこともそうだし、すごくキリスト教的だよなあ…と思いつつ、やっぱりわくわくして読んじゃう。
ドリトル先生とかも最近読み返して、翻訳ものは「遠い外国のはなし」として、なんとなれば「異世界ファンタジー」くらいの気持ちで、子どもたちは魅力的な部分だけをうまいこと抽出して読めてしまうのかなーというのもある。それは、もしかしたらしあわせなことかもしれない。閉じてる、のかもしれないけど…。
日本でロングセラーの英米児童文学も、本国では価値感や社会通念が変わりすぎてもう書架に並べていないっていうこともかなりあるみたいだよね。日本の物語で、おもしろいけど戦前の価値観のもの、ってなったら、やっぱりそのおもしろさだけを味わうって難しいもんねえ…。
最近は、ナルニアも『楽しい川辺』もドリトル先生も新訳が出たし、あと千葉茂樹さんで『ハックルベリイ・フィンの冒険』が出ましたね。少しずつ変わってきているのかな。
以前金原瑞人さんの話を聞く機会があったとき、やっぱり「古びない翻訳はない」と言っていたことを思い出します。
あと、「自分が親しんだ翻訳がいちばん!」って思ってしまう危険があるって。
ドキーッこれは超自覚ある…。新しいのもちゃんと読まないとだなー。
学校でライブに子どもたち&子どもたちが作る社会にかこまれてるつまみさんの実感が、ものすごく刺激になったー。すごくすごくありがとう!
コメント欄なのにこの応酬…(笑)申し訳なし!
つまみ Post author
はらぷさん
コメント欄とは思えぬわたしたちの狼藉。
暑いのにアツい!むさくるしい!?
ドン引きしているみなさん、いっそのこと、参加しませんか(^-^)
すごく身も蓋もないことを言ってしまうんですが、最近、本や読書に対しての教育上の期待や価値観がインフレを起こしているような気もするのです。
いっぱい本を読む=正しい
本好きな子=いい子
みたいな。
そうなのかな。
こどもの頃からいっぱい本を読んできたろくでもない大人、いくらでもいるのに。
本ってなかなかやるじゃんと思うことと、本で知識や読解力を得るすべを身につけることと、大人が「これは読んで欲しい」と思う本に出会ってもらいたいのを、全部「本が好き」という雑なくくりにまとめようとしてるところに無理があるかも、とも思います。
もちろん、大人が「本ってなかなかやるじゃん」と思ってもらいたいなあという気持ちで「読んで欲しい」と思う本もあるわけですけど。
わたしは、図書館員は、本と人との交通整理係だとずっと思っていて、それは今の学校図書館でもそうで、なんで「交通」かというと、どっちも動いてると思ってるからなんですよね。
棚から微動だにしない本、本の近くに寄ってこない人もいるけれど、それこそ、交通整理係の出番だと。
過剰なプライドは持ってないよ。
でも、殿堂入りした巨人は手ごわい。動かせない。
動かなくてもいいけど、たまには、その下のホコリをはらいたい。
言葉、表現は時代とともに変わるから、そういう意味では訳も古びますよねえ。
名訳という概念はあっても、それはあくまでもその訳された時期の名訳なんだろうなあと思います。
こっちがどんなにジタバタして、手を替え品を替えても、こどもの人気はかいけつゾロリとか、おしりたんてい、サバイバルシリーズだったりするわけで、でも、それにがっかりするのもなんかちがう気がして、正解とか安心感とか背中を強く押すような誘導じゃないところで、たとえ読まれなくても、その存在が目の隅に残るような、ひとつ、しつこくアピールできることがあったら、迷うことなく「どれをとっても自由だよ」であるような空間がこどもにも大人にも準備されてたら、なんか豊かですよね。
ま、大人に対して、たくさん本を読んでもバカはバカだよな、と公言するわたしが言うのもとんだ二枚舌ですが。
匿名
旬が過ぎたところで、すいませんが、コメントしたくて!
このテーマ、わたしもずーーっと思いながら、公言できずにいました。
というのも、良書&読み聞かせ
という善意のワンセットに太刀打ちする
このモヤモヤした気持ちをきちんと言葉にできないというのがありました。
良書が嫌いなわけでもない、
本も好きだし、絵本の世界も好き。
でも・・・
これって、主流からあえて外れるものを好む
ただの中2病なんじゃないか?!
つまみさんをはじめ、みなさんのコメントに言いたかったのはこういうことだと
何度もよみかえしちゃいました。
子どもって「自由なもの」って言いながら
絵本界の中でイメージする「自由な子ども」になれという
無言の圧をかけているような気がします。
自由に考えてといいながら、
ある一定の線を越えない先生の意図する意見を自発的にいうことや、
文章を書くことが「想像力豊かで自由で活発な子」と言われるように(笑)
それに、図書館でいつも本を借りていく
いわゆる読書家が
そこそこヤな奴が多い(笑)ていうのも
なんか読書=いい子に育つが素直に心に入っていきません。
しかも本の中で9類ばっかがほんじゃないよーーって言いたい。
でも、ほんと読書って、いつでもどこでも
時空を超えられるどこでもドアだから
ある程度の文字を読めるのは楽しいことっていうのを
伝えられたらいいなって思ってます。
匿名
名前書き忘れました💦
青豆でした
つまみ Post author
青豆さん、こんばんはー。
胸のすくようなコメント、ありがとうございます。
特に
「図書館でいつも本を借りていく
いわゆる読書家が
そこそこヤな奴が多い」
ホント、そうなんですよねえ。
そういう、木で鼻をくくったような態度が相手にどう映るか想像できない、もしくは、想像できてもスルーもできるようなあなたは、いったいぜんたい本で何を学んでるのさ、と言いたくなります。
まあ、学ぶために本を読むんじゃない、と言われたら、ぐうの音も出ないのですけどね。
というか、めんどくさくて、もういいよ、と思います。
でも、こういう事例を見ると、私の長年の持論「本を読んでもバカはバカ」をあらためて世の中に言って回りたい気がします。
本って自由になれるツールだよ、どこでも行けるんだよ、と言ったそばから、こどもを鋳型に嵌めるような「自由」を提示する二枚舌の大人を見れば、こともも狡猾にならざるを得ないかもしれませんね。
自分で言ってて、耳が激痛です。