究極の寂しさとは、自分という人間の表し方がひとつだけになることか。
晩年の父を幼なじみが訪ねてきたとき、その友だちを「しょーちゃん」「しょーちゃん」と何度も呼び、帰ったあとも「しょーちゃん」「しょーちゃん」と私たち家族に繰り返し言っていました。まるで「しょーちゃん」と口にすることそのものがうれしいみたいな感じ。
あれから20年近く過ぎましたが、父はやはり「しょーちゃん」と口にすることそのものがうれしかったんだろう思います。
78歳で亡くなった父にも「幼なじみにしか見せない自分」がいたのでしょう。その「自分」を「しょーちゃん」という呼び名が思い出させてくれる。当時の「自分」に戻してくれるチカラがあったんじゃないかと思うのです。
私たちは小中学の同級生に会うとあっという間に当時の関係に戻ったりしますが、そのときも「小中学の同級生にしか見せない自分」になっている。不思議なもので、高校の同級生ともちょっと違うんですよね。年齢が小さいころの友だちのほうがほっとするし、無邪気になれるような気がします。
お年寄りは、若い人に比べて心の動きが鈍いように思うけれど、それは、「この人の前でしか見せない自分」を可能にする「この人」をすでに何人も失ってきたからでもあるのだ、と思います。
親がいなくなれば、親の前でしか見せない自分も消えてしまうし、夫や妻が亡くなれば、夫や妻の前でだけ見せていた自分が消えてしまう。幼なじみもそう、仕事仲間もそう。
だれかをなくす、ということは、その「だれか」そのものをなくすことであると同時に「その人の前で現れていた自分」をなくすことでもあるのです。
父は、「しょーちゃん」と口にすることで野原を駆けまわり、カラダをぶつけ合い、大声で笑い合う、「躍動する自分」を取り戻していたのかな。
「この人の前だけで現れる自分」を複数もっているということは、生きる世界の多様さであり、人間関係の豊かさであり、実は、まだ若い証でもある。
究極の寂しさとは、自分という人間の表し方が、ただひとつだけになることかもね。家族や昔からの友だちなどは自然減少していくから、自分を複数の方法で表現できる場を持っておくのは、やはり大事だなあと思います。
12月になりました。ずいぶん温かい12月。昨日の夕方、幼い女の子が半そでTシャツで遊んでいましたよ。このまま暖かい冬なんですかね?
オバフォーは、今週もコツコツと更新します。今日はゆみるさんの「黒ヤギ通信」。大事に過ごした友との時間が目に浮かぶようです。ぜひお読みください。
土曜日には、3つの記事が公開されていますよ。おしゃれ会議室は、人気のマウンテンパーカーについて(流行っていること、知ってました?)、ふぇんふぇんさんが愛犬バトー君に作った手作りケーキもすごいのでぜひご覧ください。そして安定のおもしろさ「カレー記念日今週のおかわり」もぜひ。カレー短歌の投稿もお待ちしています!
暖かいとはいえ、冬も本番。風邪には気をつけましょうね!
Jane
数年前の海外移住で、昔の私を知っている人誰もいなくなりました。それと一緒に「彼らの前で現れる自分」もなくなっていたのですね。だからこんなに自分の人生がモノトーンになった気がするんだなあ。
ミディアム
Janeさんと同じ立場です。
もう日本を離れて20年以上経つのに、まだ自分の立ち位置を決めかねているところがあるのは、こういうことなのでしょうか。