◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第19回 ずねえ人間にはなれないけれど
ハタチ前後の頃、しばらく寮に住んでいた。5階建てのわりと大きな寮だった。寮長は50代ぐらいの男性で、家族と敷地内の一軒家に住んでいた。下世話で、講釈垂れで、寮生(女性)の噂や悪口を平気で周囲にまき散らす人だった。
当然、寮生たちに嫌われていて、ある日の寮の会議で寮長が議題に上がった。具体的には忘れてしまったが、要するに「プライバシーの侵害をなんとかしてほしい」だった。
意見には概ね賛成だった。たとえば、若い女性をあずかる立場として門限に厳しいのは当然だが、前夜の門限遅刻者の名前を、翌日、事務室に詰めている電話当番の寮生に嬉々として(そう見えた)明かし、「○○は遊び過ぎなんじゃないのか」などと言うのは本当にやめてほしいと思っていた。
なので、途中までは決議に賛同するつもりだった。でも、糾弾の言葉が徐々にヒートアップし、寮長吊るし上げの様相を呈し始め、一部の寮生たちに好戦的な感じが見て取れてくると、急速に居心地が悪くなった。怖くなったのだ。
「退任を求める前段階として、寮生全員への謝罪を求める」の決をとる際、私は賛成に手を挙げなかった。
採決の結果、保留になった気がするが、記憶はあいまいだ。ただ、会議が終わって部屋に戻るとき、隣の部屋のミサトちゃんに「つまみちゃんが賛成しなかったの、意外だった」と言われたことは覚えている。
私が「みんなが怖くなっちゃって」と言うと、ミサトちゃんは「ちょっと、何言ってるか、分かんないんですけど」という表情を浮かべた。会話はそれ以上、続かなかった。
そこから遡ること4年ほど前の1970年代なかば、私は福島市のマンモス中学校に通っていた。3年生の夏休みが過ぎると、放課後、高校受験のための補習授業が始まった。
球技大会を目前に控えたある日、クラスの女子全員で補習をボイコットした。「ボイコット」などという強い意志があったわけではないが、誰かが「最後の球技大会だよ。一日ぐらい補修をサボってもいいじゃない。練習しようよ」と言い、女子全員が「乗った」のだ。
私も、軽い気持ち…というより、なにも考えずにそれに加わった。加わらないという選択肢は浮かばなかった。「最後の球技大会」というワードが光彩を放ち、妙に高揚した。
ところが、それを知った、その日の補修担当のオオカマタ先生が激怒しているという報が校庭の我々のもとに届いた。
オオカマタ先生は、風采の上がらない初老(に見えたが、もしかしたら意外と若かったかも)の数学教師だった。福島弁で「大きい」ことを「ずねえ」と言うのだが、先生は授業中、突然「5は3より…ずねえ」とつぶやくのが持ちネタ(?)のトボけたイメージだった。
そのオオカマタ先生が激怒している!我々は震え上がり、練習を放り出し、校庭の隅に集まった。
「ど、どうしよう」
「なんだか私たち、気が大きくなってたね」
「興奮してたっていうか」
「みんなが一緒だから怖くなかった」
「先生のことなんて全然考えてなかったよ」
「でも、球技大会の練習をしたかったのであれば、オオカマタ先生に言うべきだった」
「うん、『オオカマタ先生はいいって言ってくれるんじゃないか』が、『言わなくてもいいや』になっちゃってた」
「全員で謝りに行く?」
「うん。でも、まず代表が行った方がいいんじゃない?」
そのとき学級委員をしていた私とアカザワさんが職員室に向かった。
オオカマタ先生は、いつもの飄々とした感じではなかったけれど、そんなに怒ってはいなかった。我々の謝罪の言葉を受け入れ、もういいと言った。
先生は、職員室を出て行く私たちに、ついでのように「『群集心理』って言葉を知ってるか?知っていても知らなくても辞書で調べろ」というようなことをネイティブな福島弁で言った。私はなんとなく知っていたその言葉をあらためて調べた。そして、その言葉が示す状況を極力回避…もっといえば嫌悪するような人間になったのだった。
★★★★★★
★★★★★★
オオカマタ先生!あれから長い年月が過ぎましたが、先生のおかげというか、先生のせいで、みんなが同じ方を向くことにとても警戒心の強い人間になってしまいました…と言ったら、とんだぬれぎぬですか。
でも、みんながこぞって「あれはいいよね」「これが正解!」というような雰囲気になると、脳内警報が鳴り、ホントにそうだろうか、なんか気持ち悪いな、と思ってしまいます。人々に、興奮や高揚感が見えた日にはその気持ちが膨らんで、なるべく遠くに逃げたくなるのです。
そして幾星霜。齢を重ね、【やっかみかもしれませんが】などという偏屈な記事を書くようになってしまいました。
先生、私は中学生のときから変わってません。人に影響されやすい、弱くて臆病な人間のままです。でも、だからこそ、群集心理や付和雷同が怖いです。
これからも「ずねえ人間」にはなれそうにないけれど、臆病なりに考え考え生きて、思考停止や同調圧力には敏感でいたいです。
ところで先生、私は今、ついつい天に向かって話しかけている感覚でいるのですが、もしご存命だったら…ご、ごめんなさい!
by月亭つまみ
いまねえ
つまみさん、こんにちは。
「ずねえ」という言葉、福島では「大きい」を指すのですね。
私は静岡東部に住んでいますが(育ちは千葉)
地元育ちの義母の使う言葉に「ずない」というのがあり、それはどうやら
「融通が利かない」とか「聞き分けが悪い」とか「わがまま」とか
負の表現に使うようなんです、「あの人はずないことをいう」とか。
どれくらいの範囲で共有されている方言なのか知りませんが
私的には「ずねえ」を「ずない」と聞けてしまい、面白いなあと思いました。
って、横道でした。私も中学生のころ小さな集団の中で舞い上がってしまい
無関係の人を傷つける発言をしてしまい、未だにその申し訳なさを抱えています。
(集団の一体感や高揚感はコンサートやお祭りでは満喫できるけれど)
個々ばらばらに静かに暮らしていた人たちが突然顔色を変え声を変え
一方向を向き始めたらそっと一歩下がる、一呼吸おく、
「正しさ」の名のもとに吸収されない、
これがまさに今ひしひしと身にしみる日々です。
つまみ Post author
いまねえさん、こんにちは。
ずねえ=ずない、です!
ネイティブ(中高年以上?)は「ずねえ」、ちょっと若めの人は「ずない」と言っていたような。
そうですか。
同じ言葉でも、福島と静岡では意味が違うのですね。
面白いですねえ。
コンサートやお祭り、そしてテーマパークなど、確かに一体感や高揚感が醍醐味ですね。
昔、ブルーハーツのコンサートに行ったとき、開演まではおとなしげ、物静かげに見えた人々が、ライブが始まったとたん豹変するのを見て、好感と少しの嫌悪感を同時に持ちました。
そんな風に感じてしまう自分は、つまらない人間かも、とも思いました。
アメちゃん
Twitterなんかでも、例えばある有名人なんかが
誰か(弱い立場の人)を攻撃的に批判したりすると
多くのTwitter人が、その攻撃された弱い人を守るという正義のために
その有名人の批判合戦になることがありますよね。
あれを見ると「吊るし上げ」って言葉が思い出されてコワくなりますし、
結局、一人の人を多勢で攻撃してるということで同じ土俵なんじゃないかなぁって
感じます。
私もつまみさんと同じく、なんていうか仲間同士など集団で高揚してるのを見ると
ちょいと嫌悪感を感じます。
といって、甲子園でタイガースを応援するのは大丈夫なんですけど
稲葉ジャンプとかぜったいムリですね。
あと、日本ハムファイターズだったかなぁ。
選手の応援歌を歌いながら、男女が入れ代わり立ち代わり立ったり座ったりするの。
あの叫び声聞くだけでニガテです。ファンの方、ほんとスミマセンなのですが…。
つまみ Post author
アメちゃんさん、こんばんは。
Twitterやインスタのコメント欄が匿名の人々の言葉の暴力の場になっていたりするのを見るとゾッとしますよね。
リスクを背負わず批判だけするっていうのもどうかと思うし、正義は振りかざすものではないです。
反対意見や、共感できないことは当然あっていいし、でも反対や批判に悪意をこめる必要はないのに。
自分と意見が違う=悪意を発動させていい、になっているような。
ああ、いやだいやだ。
野球の応援のしかたも、好感が持てるのと持てないの、ありますね。
私も、なんだか一体化したような、宗教がかった応援、苦手です。
もうずいぶん前ですが、東京ドームに日ハムVSロッテ戦を見に行って、ロッテの妙に統制された応援に「気持ちわる!」と思いました。
あとで聞いたところによると、大学生を募って、応援の練習をした上での観戦だったとか。
職業不詳の怪しいオジサンがハッピかなんかを着て、好き勝手に動いている応援の方が百倍好感が持てるわ、と思いました。
稲葉ジャンプ、本拠地が東京だった頃は日ハムファンでしたが、知りませんでした。
そんなことをやっとるのか!?(^_^;)