ヴィクターのスッポン
長らく絶版になっていたパトリシア・ハイスミスの『11の物語』が増刷され、書店に並ぶようになった。新しい帯がついて、そこには「映画『PERFECT DAYS』で話題」と刷られている。
もう、何回も書いて、髭まで生やしているオッサンが、また『PERFECT DAYS』の話かよ、ということなんだが、いやまさに、そうなのでぐうの音も出ない。すみません。また、今週も『PERFECT DAYS』の話です。この映画の話をするのはどうなんだろう、と自分でも思っているところがつらい。だって、この映画、見た人全員が、「すごい、おもしろい」と言ってくれるわけじゃなく、「たいくつだよ、どこがおもしろの」と言う人だっているし、僕自身も「見た時の心情によってはそう思うかもなあ」と思ったりするから。
だけど、書きたくなったら書く、というのがこのコラムのテーマなので(いつから?)、書こうと思う。まるで佐藤愛子と正反対。「書ける、書く、書きたい」と言うことで、書き始める。
映画『PERFECT DAYS』を見た時点で、僕はパトリシア・ハイスミスの『11の物語』を読んだことがなかった。パトリシア・ハイスミスは『太陽がいっぱい』を確か高校時代に読んだだけで、どちらかというと有名な映画の原作を書いた人というイメージで捉えていた。ところが近年、『キャロル』が映画になり、『パトリシア・ハイスミスを探して』というドキュメンタリーが上映されて、一気に作家パトリシア・ハイスミスに興味が出てきたところだった。そんな時に、映画『PERFECT DAYS』のなかで、どうやら彼女の『11の物語』は大きな意味を持っているように描かれていた。
映画館からの帰り道、Amazonで調べてみると、「品切れ、入荷の予定未定」と書かれ、古書の値段が少し上がっていた。どうしようかと思っていると、レビューの欄に「重版出来の予定があるそうです」と書かれていて、僕はそれをあてにして、しばらく我慢していたのだった。その間にも何回か『PERFECT DAYS』を見て、そのたびに『11の物語』を読みたい。映画の中で主人公の姪っ子が言う「ヴィクターみたいになっちゃうかもよ」という言葉がどんどん気になりだしていた。
やっと手に入れた『11の物語』はタイトル通り11編の短編が収められていて、劇中で話題になっていた『すっぽん』という話は三つめにあった。さっそく読みたい気持ちをいさめながら、僕は一本目の『かたつむり観察者』二本目の『恋盗人』と読み進め、三本目の『すっぽん』を読んだ。
姪っ子のニコが主人公の平山に「おじさん、わたし、この『すっぽん』って話好きかも。ヴィクターって男の子の気持ちがわかるっていう意味」と笑い、母が迎えにきて帰らなければ行けなくなったときに「おじさん、ねえ、おじさん。わたし、ヴィクターみたいになっちゃうかもよ」と言い、平山が「そんなこと言っちゃだめだ」とたしなめられたシーンが甦ってきた。そして、知らず知らず泣いてしまっていた。
『すっぽん』は少年と母の物語だった。映画のなかで、『11の物語』を買った古書店の女主人が「パトリシア・ハイスミスは不安を描く天才よね」と話すが、『すっぽん』も少年と母の不安が描かれた物語だった。
映画というのは、それを形作っていく人たちのバックグラウンドや熱意によって、深くも浅くもなっていく。『PERFECT DAYS』を見る時に、必ずしも『すっぽん』を読んでいる必要はない。けれど、『すっぽん』を読んでいれば、より世界は深まるし、読んでいなくても、これまでに読んだ別の一冊を思い浮かべられる経験があれば、もしかしたら別の世界が広がるかもしれない。
映画も小説も、自分を納得させるのではなく、少しでも世界を広げるためにあるんだと、どこかで聞いた覚えがある。そうだなあ、と思う。あれは誰に聞いたんだろう。うちの両親はそんなこと言わないと思うけど、まさか父親だったろうか。それとも、学生時代の先生の一人か。映画の中で、誰かが言っていたのか。小説かエッセイに書いてあったのか。電車の隣の席の親子が話していたのを小耳に挟んだのか。それとも、誰にも聞いたことがなくて、僕が勝手にきいたような気になっている言葉なのか。
そんなことをぼんやり考えられる時間をくれるから、映画とか小説があれば生きていけるなんてわざと大げさに言いたくなるんだなあと思う。
過去の『PERFECT DAYS』の記事はこちらからどうぞ。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。