結局、自分が「自分」に慣れるのが、実は一番、難しかったという事実。
今は娘がいますが、夫が倒れて以降、ひとりだったときも、3食作って食べていました。月曜日に1週間の献立を考えて、作り置きなんかもしました。病院から帰り、犬の散歩を終えて夕飯を作るのは面倒すぎるので、温めるだけでいいようにして出かけるとか。
それでわかったんですが、どうも、わたしは、自分で作った料理を食べるのが好きなようです。多少、味がぼんやりしていても、自分が作ったものなら許せる。ものすごく料理上手というわけではないですが、自分が作る味を好きになるよう時間をかけてしつけた、癖づけた結果ではないかと思うのです。長年の努力の結果。
つまり、まめに料理をする、ということは、「料理をする」ことを習慣にするだけじゃなくて「その料理を好む」ことも習慣にして成り立つ。その両方がないとうまく回らないわけです。料理をするという行動を習慣化するとともに、自分の料理を好んで食べる、ということも習慣化しなくてはならない。
そう考えると、生きるということは、ですよ。つまるところ「自分に慣れる」ということなのですね。やはり。長い間、薄々、そうではないかなあと思っていましたが。
もっと正確にいうと、
自分のやることを好むように、無理矢理でも自分を癖づける。
自分が作りだすモノやコト、招きがちな事態、夢見がちな方向性、好きになりがちな人、料理しがちな味つけ、買ってしまいがちなモノといったコントロールできそうでできない自分という人間が作り出すものに「慣れる」→「慣れて受け入れる」→「慣れて好む」ところまでもっていく。
慣れて好むところまでいければ、こわいものなしですよ。サービスの提供者=自分、サービスの受容者=自分なんだから、これぞ自己完結。ありとあらゆる自分が自分に提供するサービスを好むようになって充足したいなあ。質を上げるか、期待値を下げるか。どちらか片方からだけでなく、どちらの方向からもアプローチしたほうがいいんだろうな。そして、そこで生まれる葛藤が、生きるということのトレーニングだったりするんじゃないですか。
ああ。寝ても覚めても、自分がつきあうのはこの自分!
先週土曜日は、3つの記事が公開されました。まずは、「カレー記念日 今週のおかわり」相変わらずの面白さです。ミキティさんの「おしゃれ会議室」は、今回も目からウロコのメイクテク、そしてふぇんふぇんさんがタイから届けてくださる犬バカコラム。犬好きはもちろん、海外の暮らしに興味のある方もぜひお読みください。
今週もオバフォーは、コツコツと更新します。時間のあるときに遊びくださーい。わたしの連載記事、神奈川新聞で掲載が始まったそうです。お近くの方、よかったらお読みください。タイトルは、「献身と保身のはざまで」です。よろ。
モリミー
カリーナさんがおっしゃっていることから、少しずれるかもしれませんが…
私も、自分で料理をして食べることが好きです。手の込んだものだったり、盛り付けをきちんとしたりすることもなく、お惣菜やお弁当を買う習慣がないというだけです。買ったものであれ、人が作ったものであれ、出されたものを食べるのが苦手です。もちろん、たまに息子夫婦の家でご馳走になったり、友達や夫と外食するのは、楽しいし、美味しいと思います。毎日のご飯は自分で作ったものが好きです。
自分で、作れなくなった時、もしかして買い物が出来なくなった時に、すごいストレスや悲しみを感じるのではないかと心配しています。夫やお料理嫌いの友達のように、作ってくれたら、何でもいいみたいになれないような気がしています。
今まで、毎日の料理がそんなに苦でないことをプラスに思っていましたが、これから先、そういうことが、マイナスに働きそうに思います。「死ぬ前に何を食べたい?」という話の中で、「茶碗蒸し」と私が言って娘が買ってきてあげるというので、「自分で作った茶碗蒸し」と私が言ったら、大爆笑でした。
カリーナさんの言われるように、自分自身のやりがちな失敗や癖に慣れる、さらに、好きになるのレベルまで行きつけば、怖いものなしですね。