ゾロメ日記㊴ 人生はいろんなふたりだ
◆3月4日 家庭内のふたり
今週は通院ウィーク。一昨日は義父のLV(low vision)外来に行ってきた。主治医から、超弱視でも「視ること」にもっと可能性というか、コツを見つけることができるかもしれないと紹介されたのだが、視野検査の結果、見える範囲と視力が少なすぎて難しいと判明。そう言われることはわかっていた気がするが、つい期待してしまった。本人はもっとだろうな。
そして本日は、義父母そろって総合病院での定期診察。ふたり同時の通院をひとりで介助するのは困難になってきたので、夫とふたりがかり。今日は、義父に急遽、複数の検査が入ったり、先に家に戻った義母にその後しばらく連絡がとれなかったりして、付き添いふたりもくたびれた。
◆3月5日 副音声のふたり
去年より花粉症状がキツい。そんななか、友人から「一人旅で奄美大島に来ています。花粉が飛んでないので呼吸が楽です」とメールが来る。くっそおー!うらやましいぞー!
友人と私は、以前同じ職場にいて、くだらないことをだらだらしゃべり続けるので「職場の副音声」と言われていた。思えば、名(迷)コンビだった(自己申告)。
◆3月7日 あの後(のち)のふたり
勤務先の小学校図書室で、先週から東日本大震災関連の書籍のミニ特集コーナーを設置しているが、あまり手に取られてはいないようだ。5年という月日は、大人にとっては最近でも、子どもには遥か昔なのだろう。6年生は7才、1年生にいたっては生まれてすぐのこと、だものなあ。
経年というのは、記憶が薄れるばかりではなく、人によっては「記憶が存在すらしない」ことなのだという、ものすごくあたりまえの事実にハッとする。
福島県いわき市に従兄が住んでいて、医者をやっている。震災後、しばらく連絡がとれず、数日後、無事は確認できたものの、海辺に近かったクリニックは泥をかぶり、医療機器の多くが使えなくなったと知った。
従兄は医師会の役員をしていたこともあって、震災後しばらくは、自分のクリニック復旧の余裕は全くなく、東京電力福島第一原子力発電所の事故を気にしながら、陣頭指揮をとるために市内の避難所を駆け回っていたのだった。当時の状況をメールから抜粋すると
市内140カ所に設置された避難所には14,000人もの人が収容されております。うち8,000人は楢葉町、広野町からの避難民で、残りは 地震や津波で家を失ったいわき市の人々です。
(中略)東京都医師会や岡山医師会などから、DMAT4チームが駆けつけてくれたので、本日ほとんどの救護所をまわることができました。すぐに入院が必要な患者はいませんでしたが、薬がない人がほとんどで、これからの巡回診療やメンタルヘルスケアが重要と思われます。
「入院が必要な患者がいない」のは、人的被害の大半が、家屋の倒壊などではなく津波によるものだったからだという。
当時、私は公立図書館で働いていたが、このメールの最後の「メンタルヘルスケア」という言葉が気になり、従兄に問い合わせメールを送った。被災地に勤務先の本を送りたいと思ったのだ。そして、いつか従兄の状況が落ち着いたら図書館に来てもらって、東京の人に震災直後の話をしてもらいたいとも思った。
前者は実現したが、後者は実現させることができなかった。実際に従兄に会えたのは、震災から4年も経った去年の、伯父の葬儀のときだった。
従兄と私は、4年前の労をねぎらい合ったが、ふたりには「なんかいまさらってぐらい時間が経っちゃったね」という、どこか間の抜けた表情が浮かんでいた気がする。
そしてあれからまた1年が過ぎ、今年も3月11日を迎えようとしている。今私は、従兄に当時の話を、震災の記憶がない子どもたちにこそしてもらいたいと、ミニ特集コーナーを眺めながら思ったりしている。
◆最近読んだ本
『地図とスイッチ』 朝倉かすみ/著
1972年、同じ日に同じ病院で生まれたふたりの赤ん坊、「ぼく」と「おれ」。交差しそうでしない、しなさそうでしている、40才のふたりの現在までを、紅白歌合戦情報をモチーフに、時代を行き来しながら綴る小説。
朝倉さん、構成が巧いなあ。そして、大事件が勃発するわけでもないのに、優柔不断な男と、計算高い女の、水面下の攻防にドキドキした。残念ながら、ググッと感情移入できる人物はひとりもいなかったけれど。
by月亭つまみ
まゆぽさんとの掛け合いブログです。→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」
★毎月第三木曜日は、はらぷさんの「なんかすごい。」です。