◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第14回 今も決定稿じゃない
「なつぞら」を週5日のペースで見ています。朝ドラをちゃんと見るのは「あまちゃん」以来で、その前にちゃんと見ていたのは…今、記憶をたどったところ、なんと「純ちゃんの応援歌」。今、「なつぞら」にも出ている山口智子が初々しいヒロインをやっていました。月日って頻繁にバグってません?あ、気のせいですか。
「なつぞら」を見ていて、東洋動画社内のシーンに違和感がぬぐえません。あまりにもイマドキ過ぎるから。社員の雰囲気、建物内部の感じ…と複数の理由はあるものの、最たるものはやっぱり「誰もタバコを喫っていない」です。昭和30年代のアニメ制作現場ってタバコの煙が層になっていたんじゃないでしょうか、実際には見てないけど。少なくても、1980年代の自分は、夕方になると職場のタバコの煙で制服が臭かったです。
そういうところにもいちいちリアリティを出せ、などと言いたいわけでは全然ありません。5年ぐらい前のテレビドラマ「まほろ駅前番外地」で、主演コンビの瑛太と松田龍平があまりにタバコを喫うので、見ているこっちのノドまでイガイガしてくる気がした程度には嫌煙志向な人間だったりもします。でも、2000年ぐらいからこっち…特にここ数年顕著な、コンプライアンス至上主義っぽい「現在の社会通念、倫理観、前提の表現を逸脱することを極度に警戒して事前に自主規制する表現者」に、違和感と息苦しさを覚えます。
「なつぞら」の作り手がそうだと言いたいわけではないのです。ただ、それが国民的ドラマだったり、白昼堂々とお茶の間に向けて流され、老若男女が見るものだから、という理由で、現在は社会通念上「アウト」もしくは「グレー」とされた心理やモノや言葉…そういう表現アレコレを一掃してしまったら、いずれその対象は、すべての表現や一部の権力者にとって都合がいいか否か、日常の人間関係にも波及し、人の矛盾、罪深さ、狡さ、情けなさはもちろん、愛おしさも深さも大きさも、可笑しみも哀しさも…要するに人間の業やサガが描けなくなってしまうんじゃないかと危惧してしまうのです。
極端だ、心配性すぎる、と笑う人がいるかもしれません。でも、笑う人はわかってない(言い切ったな、自分)。
何がわかってないかというと、現在の社会通念やコンプライアンスも完成形じゃないことが。今後どう変遷していくかなど誰も知らないかもしれませんが、少なくても、これからも変わっていくはずです。だとしたら、以前は間違いなくあったことをなかったことにしたり、逆に「どうせ変わっていくなら、いちいちその過程にこだわらなくていいんじゃね?」は、「どう変わってきたか」「変わったことでどうなったか」の検証や分析を積極的に放棄し、それは要するに「今がイチバン正しい」「このままの流れでいい」「よけいなことを考えるな」という、狭量で遮眼帯を装着した不気味な世の中になるような気がします。
ハンセン病の家族訴訟の判決が出て、日々のニュースでいろいろなことが報道されていますが、そもそも、この病気がどういうもので、どういう経緯を辿って、なぜ、家族まで訴訟を起こすことになり、これからそれはどうなっていくのか、私もよく理解できていない部分もあります。でも、実は今回の判決が出る直前の6月に、たまたま国立ハンセン病資料館に行く機会があり、自分の中では「ああ、あのタイミングで行ってよかった」と心から思っています。
この資料館も、できれば根こそぎ抹消したい間違った歴史を「なかったことにしちゃダメだ」という反省と自責の念から立ち上がった場所であることが、実際に行って痛感できたし、だからこそ、この施設がハンセン病の歴史の検証と分析と未来に対する具体的抽象的双方のランドマークで、「もう同じ過ちを繰り返さないというバトン」を後世に渡すカナメになると思いました。
比較するのはどうかとも思いますが、タバコもうもうの職場、倫に悖る恋愛を讃美したドラマや曲、運動中に水を飲むのは厳禁、をなかったことにしたり、上手く躱して回避する社会より、間違いまみれの国のハンセン病政策を白日の下に曝す社会の方がずっと健全な気がします。
人の日常も全ての仕事も自己表現である、常々考えている自分ではありますが、ここはあえて。「自分の仕事は何かを表現することだ」と自覚している人は、表現する際、心の自主規制や忖度がよぎったら、もう一度、褌の紐を締め直して考えて矜持を見せてほしいです。お願いします。
月亭つまみ