◆◇やっかみかもしれませんが…でもありませんが…◆◇ 第22回 20年経って気づいたこと
数字はくせ者だ。たとえば現在、東京都民が気にしたくなくても気にしてしまう【今日の感染者数】。
いくら行政のトップ(あまり名前を書きたくなかったりして)や専門家が「同じ○○人でも4月のときのそれとは内容が違って…」などと言い、いくばくかの説得力をそこに感じたとしても、○○人は○○人だよね、と思う自分がいるし、それ以前に、日々、数字に一喜一憂してしまう自分が鬱陶しい。
今の仕事での学校図書館の蔵書数もそうだ。
公立学校の場合、文部科学省が定めた学校図書館の基準冊数というのがあって、それを目安に、満たしていなければ多め、満たしていればそれより少なめ、の購入予算が、自治体の教育委員会から各学校に振られるわけだが、数字そのものは基準をクリアしていても、その中身が、およそ役に立たない、前世紀の「最新統計集」や「最新地図」だったり、汚れや劣化がひどくて手にとるのを躊躇するものだったり、なんか知らん地元の名士が寄贈してきた複本多数の自伝だったり…は、学校図書館蔵書あるあるだ。
使えない本だからと、それらをごっそり処分すれば、基準数を下回らせたという事実だけが悪目立ちし、「学校司書としての認識が甘い」と言われる始末(たぶん)。わかっていて、数字の管理より実際に役に立つ本を揃えたいからやっていたとしても、上の覚えめでたくないこと必至である(たぶん)。
事ほど左様に、数字はしばしば物事の本質の邪魔をしやがる。
昨日は母親の命日だった。母は、福島県喜多方市で長く暮らし、3ヶ月の闘病生活をし、2000年の6月に亡くなった。20年前。73歳だった。以前、このサイトでもそのときのことを書いた気もするが、付き添いをした3ヶ月は私にとっても、けっこう過酷だった。自分の誕生日に母が危篤になったときは、なんかの嫌がらせかよ、と思ったものだ。
73歳というのは、決して長寿ではないし、元気な80代、90代などを見ると、いまだに、おかあさんは早かったなとしみじみしたりする。そしてそれは必ずと言っていいほど、母に気配り心配りが足りなかった罪悪感を誘発する。まるで定番メニューセットだ。
でも最近、それは違うんじゃないかと思うようになってきた。
母は被害者意識の強い人で「自分は不幸」的なことをしょっちゅう口にしていたので、母のネガティブな自己評価は、死して尚、自分の母親のイメージであり続けた。「お母さんはいつも不幸そうだった」と。
でも違う。おかあさんはいつも不幸そうなんかじゃ全然なかった。
離婚して娘を連れて実家に出戻って、祖母がやっていた女子高校の隣の雑貨屋兼駄菓子屋兼タバコ屋を引き継いだ母は、慣れるまでは確かに大変そうだったけれど、持ち前のお調子者気質(娘にも受け継がれている)で、娘ほどトシが違う(まさに娘の私が高校生だった)女子高生と、娘がドン引きするくらい楽しそうに、世良公則や原田真二やベイシティローラーズなど、当時の芸能界最前線(?)の話をしていた。
店にはイスとテーブルが置いてあって、買った商品を店内で飲食でき、夕方、部活帰りの生徒が、通学の汽車時間や、家からのお迎えの車を待つ時間(裕福な家の子が多かったわけじゃない。単に不便なところから通う生徒が多かっただけ)の調整に使っていたので、そういえば高校時代の自分は、あまり母親と一緒に夕食を食べた記憶がない。
祖母と私が茶の間で食べていると、店からよく、女子高生と母親の大きな笑い声が聞こえてきた。誰に似たのか愛想のかけらもなかった祖母は、そのたびに眉間に皺を寄せたが、私はそれに気づかないフリをしていた。今思えば、祖母に乗っかって「おかあさん、女子高生とよく一緒に盛り上がれるよねえ」と共同戦線を張ることもできたのにそうしなかったのは、母が本当に楽しそうに笑っていたからだ。
母が店から離れたのは70歳のときだ。その数年前から、近所にできたコンビニに客をとられて店は閑古鳥が鳴きまくってうるさいほどだったし、肉体的にも続けるのが厳しくなったのは事実だったが、母は本当は店を続けたかったのだと思う。
そこでハタと気づく。
続けたいのに続けられなかったのは不幸だったとしても、70歳まで、辞めたくない仕事があったって、幸せなことじゃない?
その後の母は、観光案内所で観光客に観光地喜多方の見所を説明するパートをしたが、身体がキツいと辞めた。それでヒマになったら、今度は楽器を弾いてみたいとカシオの(安い)キーボートを買い、上手くなったら娘の夫のバンドで演奏するのだと息巻いた。上手くなる前に病に倒れたが、練習途中の曲を一度聴かせてもらった。何の曲だったかは忘れたが、真剣な分だけ、楽しそうだった。
おかあさんは、果敢に見事生き切ったのだ。本人に不幸だと思う瞬間はあっても、トータルで「不幸な人」なんかじゃ決してなかった。それは、母よりもっと少ない数字の年齢でこの世を去った多くの人も同じだし、母よりもっともっと長生きした多くの人とも同じだ。
20年も経って、こんな、子どもでも気づくことをやっと書けた。長い旅だったよ。
もう、母に罪悪感を持つことはやめよう。だって、生き切った人なんだから。
by月亭つまみ
匿名
「生き切った」ひとの一生でこれ以上力強く美しく気高い言葉を私は知らない。
私も月亭さんのお母様のように生き切りたい。
つまみ Post author
匿名さま
ありがとうございます。
誰もが「生き切る」のだと思いたいし、他者に対しても、自分にも、そう思わないことは不遜で失礼な気がする今日この頃です。