【月刊★切実本屋】VOL.40 ムズムズーム
今年もあとひと月半。「なんてこったぁ!早すぎるぞ!」…性懲りもなく、毎年毎年この時期はそう叫んで、天を仰いでいる気がしますが、年々その「!」度は強まっていること、間違いありません。
特に今年は、コロナのせいで例年とは違う時間との向き合い方を迫られましたし、今も続行中です。人々の在宅比率はおしなべて高く、私もこのサイトのおかげ(特にミカスさん)でZOOMなんぞを経験することになりました。
しっかしなあ。
スマホ同士だけのプチZOOM的なものも含め、トータルでもう10回はやっているこの文明の利器ですが、私、ただの一度としてすんなり入室できたためしがないのです。なぜ?「自分はZOOMに嫌われているのではないか」と本気で懸念するレベルです。
先日開催されたトークイベント【カリーナさん出版記念&生誕祭】を視聴なさった方はご存じかと思いますが、あのときの私も、まるでその懸念を誇示する(?)かのように、分割された画面のど真ん中に名前だけが煌々と(でもないか)表示され続けていました。
視聴者の方におかれましては、あの画面構成を見て、まずはこう思ったことでしょう。「ああ、つまみは声だけで参加するんだな」と。が、しかし!よく見るとなぜか端っこにつまみが顔を晒している。えっ?いるの?どゆこと?…とまどった人続出(!)だったと思います。
いるんならさー、せっかくのカリーナさんの晴れの舞台なんだから、画面の6分の1を占領している白抜きの「つまみさん」の文字、消しなさいよ!めっちゃ邪魔ー!と思ったはず。
はい、私がイチバンそう思いました。
あの「つまみさん」という表記こそが、自分がZOOMに嫌われている証拠です。
話は、あの日の開始時間、午後8時から、30分ほど遡ります。
私は、今までの各種のZOOM時にはしたことのない化粧を念入り(自分比)に施し、パソコンからZOOMウェビナーに入りました。あと30分かあ、いよいよ始まるんだなあと、ちょっと感慨を覚えつつ。
鼻炎で鼻は詰まっていましたが、それくらいなんのその。やるときはやる女だからねアタシは!ふがっ!と通らない鼻の穴を膨らませて、満を持して入室したわけです。
ところが、声は届くし、他のパネラー(カリーナ、ミカス、Comet、爽子 各氏)の顔は見え声も聞こえるのですが、いっかな自分の顔が映らない。いろいろやってみるがダメ。本番の時間が刻々と迫っている…どうするべ。
う~ん、最後の手段、やっぱ、これしかないよね、と、夫のタブレットを引ったくり、それで入りました。自分の顔が映りました。
タブレットの場合、パネラーとして入室すると、画面が分割されず、声を発している人しか映らないという不便さはあります。でもそれはもうこの際、しょうがない。で、パソコンはお役御免とウェビナーから退室させました。
ところが、またここに問題発生!
私のこの日の役割は、担当がいろいろある他のパネラーが拾い切れない、視聴者のみなさんのコメントをピックアップすることでした。ところが、タブレットからの参加だと、そのコメントが見えないのです。…いや、見えるのかもしれませんが、見方がわからない。他のパネラーに聞こうにも、私以外はタブレットで入っていないので状況が伝わりそうもない。そして、もはや本格的にタイムリミット。
そんなわけで、あわてて、またパソコンからも入りました。パソコンからの参加であれば、自分の顔は映らないものの、視聴者のみなさんのコメントが常時画面の端に出るのです。
気持ちよく「一件落着!」とまではいかないにせよ、これでなんとかなりそう。
ふうう~((+_+))
そんなわけで、タブレットから自分の顔と声を晒し、パソコンから他のパネリストのビジュアルと視聴者のみなさんのコメントを確認するという、イレギュラーな状況での参加となりました。そのせいで、私だけ常にあらぬ方向を見ている映像となり、悪目立ちしてしまったかも。でも楽しかったな。
ああ、こんなどうでもいい与太話に1600字も使ってしまいました。
今回の【月刊★切実本屋】はついさっきまで東野圭吾で行くつもりでしたが、この流れだとやっぱりカリーナさんの本ですよね。
私はAmazonに今回の本のレビューを書きましたが、あれはAmazonレビューのデビューということで、ちょっと気負っていて、今読み返すと恥ずかしいです。Amazonサイズにトリミングしたよそゆきの顔という感じ。
なので、あらためて、普段の顔で今浮かぶ感想をここに書こうかな…とも思ったのですが、最初に読んだときの感想に勝るものはない、と勝手に判断して、10/24、読み終わった直後にカリーナさんに私信として送った感想をここに貼ります。私信なので言葉遣いがアレなのはお許しください。
内容を若干お直ししてここに公開しようかと思いましたが、そのままです。よそゆきと私信、その間はないんかい!?と言われそうですが、ありません。
ではみなさま、よろしく(なにが?)。
素晴らしかったです。本当に良かった。凄いと思った。
事実や状況や心情を的確に表記するカリーナさんの手腕は知っていたつもりでしたが、カリーナさんの本当の凄さを知らなかったんだと思った。
言葉って、それをセレクトしても、その言葉だけに集約されるわけではない。でも、特にノンフィクションと呼ばれるモノは、書かれた言葉だけで表現されたもので判断しがち。ある意味、それを当然だと思って読んでいる。でも、今回のカリーナさんの本では、その言葉の周囲や、選ばなかった言葉の存在もものすごく感じた。
それは自分が、この野田敦子さんを知っているからなのかと、読みながらすごく考えたのだけど、きっと私は、この著者のことを知らなくても、この本にそれを感じて、この人、なんかすごいなと思ったはず。
まるで、とても誠実な私小説を読んだような読後感に今浸っています。っていうか、途中から私小説だと思って読みました。
圧倒されつつも、もっと書きたいことはいっぱいあるのですが、このへんで。
本当に書いてくれてありがとうございます。
どんな表現でも人を傷つける可能性がある、というのは、私ごときでも肝に銘じていることですが、カリーナさんの覚悟に心から敬意を表します。
(ここで数十分間が空く)
いやあ~、今、お風呂に入って余韻に浸ってきました。
献身にプレイという言葉をブッキングさせたカリーナさんの言語感覚は、たぶんその組み合わせを初めて使ったであろうブログ(間違ってたらゴメン)を読んだときからインパクトがあってさすがだと思いましたが、このタイトルに惹きつけられ本を手に取り、開いて読んだ人の、各種の「ああ、思ってたのと違う」が想像されます。
本なんて、思っていた通りのことが書かれていたら、それが実用書であれ全然面白くないし、お金を出す価値はないと思っています。
自分を、想像していた場所や、見知った世界、とは違うところに連れて行ってくれることこそが読書の醍醐味。
それはどんな本でもそうです。
そして、手垢にまみれた、この表現を使っときゃ無難だろ、の文章は、一行たりとも読みたくない。
今回のカリーナさんの本ですごく感じたのは、どんなに行き着く場所(気持ち)が共感できるものであっても、そこに至る表記に一行も「こんなもんでよかんべ」イズムがないことです。
どの文章も、書き手の息遣いを感じるというか、書き手の思いが乗ってる。なのにすごく読みやすい。だから読みやすい、のかもしれない。
昨日(※10/23)の在宅デトックスで「どこからが介護なんだろう」という話になって、そんな線なんてないよね、という当然の帰結になったわけですが、僭越ながら「介護そのものより、関わる方の気持ちの濃淡が大きいんじゃないか」と発言(?)しました。
今日、カリーナさんの本を読んで、一人の人間の気持ちの濃淡の多様さ、奥深さ、せつなさと心強さ(小室か)を思いました。
あらためて書きますが、めっちゃ面白かった。カリーナさんの本だから一気読みしたのではなく、面白かったから一気読みしちゃいました。(終わり)
by月亭つまみ
爽子
つまみさん、こんにちは。寒くなってきましたね。
わたしも、「もうあまり今年がのこってない!!」の「!」が年々強くなってきています。
同世代ならではの共感をかみしめています。
実は私もあの日ばかりは、直前にマスカラをつけに洗面所へ。
何か月も使ってなかったので、固まって使い物にならず湯煎して復旧させました。
なのに、zoom入室に、なんだか手間取りました。
zoomって、普段見ないようにしている自分の顔がずっと見えててやばいですね。
半分はお絵描きしてるために紙の上に視線がありましたけれど。
紫の文字のカリーナさんの本のブックレビュー、まったくそのとおりだ。
わたしは、ごくごく水を飲むみたいな読み方をしてしまいました。
2回目はじっくりと。
とてもいい本だと思います。
つまみ Post author
爽子さん
湯煎!なんか爆笑してしまいました。
私も、マスカラはたぶん固まっているはず。
固まりかけって、イチバンこってり付きませんか?
私のは安物だからかな。
加齢で瞼が下垂して目が腫れぼったくなったので、マスカラをつけると、すぐ瞼に付いてしまうようになりました。
ああ、悲しいぜ。
カリーナさんの本は、文学的にも優れていると思います。
文学って、実は優劣なんて全然わからないんですけど、各章の最後の文章とか、場面の移り変わり、人の描写、幾度も唸りました。