◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第48回 ゆるく暮らして 生血がほとばしり出すような文字を書く
先日のカリーナさんのこのツイート↓↓↓
かっこいいなあ。Podcastで生で(リモートだが)聴いたときもそう思ったけれど、こうして活字になると、自分自身の経験に裏打ちされたカリーナさんの腹の括りっぷりが鮮明で、なおさらかっこいい。
死産というものを経験した28歳のときに自分もこう思うことができればよかった。いや、ある意味、思うことができたから、7年後に、このときから続いていた気持ちをベースにした文章でコラムの賞を受賞することができたのだと思うけれど、ただただくすぶっていた時間も本当に長かった。
世の中に起こることすべてが怖かった。なにも信じられなくなってしまったのだ。あんなことが起きるなら、さらにこれからどんな不幸が起こっても不思議ではないと思った。つまり、ものすごく傷ついたのだ。その気持ちを率直に表現することで、もっと傷つくことが怖くて、口を噤んでしまった。
あのとき、カリーナさんの言葉を聞いたら、自分はどう思っただろうか。勇気づけられたのだろうか。それとも、私はそんなに強くないと、ますます殻に閉じこもったのだろうか。あれから今まで、それまでの倍以上の人生を生きてきて、いまさら言うのもなんだが、どう転がるか試してみたかった。転ぶか、ではなく、転がるか。【不幸は踏み台にしろ】は自分にどう響いただろう。
今回のタイトルの「生血がほとばしり出す文字」は、『生きがいについて』を書いた精神科医の神谷美恵子が、この本の構想を練っていた日記に記した言葉を借用したものだ。神谷美恵子は、ハンセン病患者と寄り添うことに命を懸けた人だが、自身もガンを患い、長い闘病生活を送っている。彼女は、『生きがいについて』の中で、癌に罹患したある主婦の手記を紹介しているが、実は、それは彼女自身の手記だったという。
もし、「不幸を踏み台にする」ということにいくつかのアプローチのベクトルがあるのなら、私は私なりの「生血がほとばしり出す文字」を書きたい。そういう心持ちで文章に向き合いたい。傷ついた人が目にする可能性の高い文章は特に。
長くくすぶっていたからこそ、いまさらだからこそ、そう思う。しかも、ゆるく暮らしながら、そうしたい、そう思っていたいのだ。
その、一見、相反することのようなものの両立こそ、自分が不幸を踏み台にできた証のような気がするのだ。他者にはわかりづらいかもしれないが、自己憐憫、下手すりゃ自己陶酔かもしれないが、そういうタイプのストイックさもあるってことを、何より自分自身に示したい。それが私の財産だと思いたいのだ。
神谷美恵子の構想の日記の借用部分を多めに引用する。
【どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり走り出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。今度の論文も殆どそんな文字ばかりのつもりなんだけど、それがどの位の人に感じられるものだろうか。】
どの位の人に感じられるか、だよな、まったく。私も私なりのアプローチで試してやろうじゃないの。そして転がってやる!苔なんて生やすもんかと。
by月亭つまみ