◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第1回 さる業界の人々
※自分の口癖(書き癖)をタイトルにしたこの記事スタートの経緯はこちらです ⇒ ★
ていねいに暮らすとか、日々の生活をきちんと楽しむ、と迷いなく言われることが苦手だ。
いや、そうしたいものだと思っているし、暮しや生活や友の付く雑誌をめくったりするのは好きである。それを見て、高いけれど、素材や作り手にこだわりのあるキッチン用品や洋服や雑貨で身辺を固め、食材も厳選し、自分自身も「こだわりのある人」として、残りの人生をセンス良く生きてみたいものだと夢想もする。でも、なんだかダメだ。
時間だったりお金だったり自分の審美眼だったりが、そういう生活を維持するレベルにはないからダメなのだ…と、つい卑屈に思いがちだけれど、案外そうではない気がする。
雑誌は嬉々として見るくせに距離を置きたくなるのは、その前線にいる人たちに時折、無神経臭を感じるから。だから遠巻きに眺めるのは好きでも、それ以上、とまでは思わないのだ。
これから、その「無神経」という暴言の根拠をぐだぐだ書くわけが、たぶん説得力は薄い。やっかみどころか、妬み嫉み僻み根性丸出しである。でも、ムダに覚悟を決めて書くぞ。おーっ!(ばか)
たとえば自分が、お金や労力やこだわりを「ていねいな生活」に注ぎ込む人間だとする。そうする理由はたぶん
①性格。やめたくてもやめられない
②そういう人に見られたいので多少無理してもやっている
③そうすることが仕事や将来に活かせるから
の三つに絞られると思うのだが、①だったら、まあ人には吹聴しないだろう。特に語るべきことじゃないから。わたしの友人にも①の人がいるが、彼女は非常に地味だ。語らない。滋味のある地味。
でも、②③だったら、なるべく多くの人に言いたいだろう。表現者の自覚もあったりすると思う。
中には、①なんだけれど、周りの人がほっておかず、かつぎ出される、という事例もあるかもしれない。しれないけれど、その場合、ふつうに考えて、自分の生活信条や性癖を世に開示するのは、相当羞恥心が発動する行為だと思うのである。だって、それ以外にできないからやってるだけなんだもの。とりあえずは「そっとしといて」と思うんじゃないかな。
思いませんよ、という人は、すでに②③の領域とカブっているのじゃないか。
①の人は、なりゆきであろうとうっかりであろうと「生活にこだわりを持つ自分」を世に発信してしまうはめになったら、そうすることで、受信した人の中に「ああ、こういう人に比べたらわたしなんてダメよねえ」と、自分にとっては不本意な劣等感を持たれること、なにより自分が「祭り上げられる存在になるかもしれないこと」を気にするのではないのか。なんかホントすみません、みたいな。
その「受け手側の劣等感誘発」的なものに思いが及ばず、もしくは、及んでも気にせず、自分がいいと思っていることを「自然に、無理せずやっているだけなので、誰に恥じらうことなくお話ししましょう」というスタンスで語ることができる人を、わたしなんぞは「イッツア マイ ワールドの住人かよ」とか思っちゃって、無神経かもと警戒してしまうのである。悪いけど。
そもそも、生活信条なんて人に語るもんじゃない、と思っているのだ。もっと言うと、語りたがる人は自己完結しがちで、想像力はあんまりないのかな、と。
こんなことを思いつつ、ではなぜ自分は、暮しや生活や友の付く雑誌をつい読んでしまうのだろう。以前、わたしはこんな記事を書いている。⇒ ★
要するに「暮しの手帖(この期に及んで雑誌名をおもいっきり書いてしまった)吸盤式タオル掛けにおける熱湯」説を唱えたわけだが、熱湯が熱湯として効力を持つ大きな理由をこのたび発見した気がする。それは、信条の伝承者ともいえる書き手(ライター)がいろんな意味で有能ってことだ。
こういう雑誌(一括りにしてスミマセン)のライターや、たとえばこの業界のあらゆる意味でカリスマであるとわたしが勝手に思っているエッセイストの平松洋子さんって、めちゃくちゃ文章が巧い。それは、文字どおり、文章力があるという意味と、①②③の行き来が巧いという意味。出しゃばらず、謙り過ぎず、毅然とし、なおかつ少しだけユーモラスで、肝心なところはあえて静謐に書く、みたいな緩急取り混ぜ具合が絶妙なのだ。だから読ませる、読まされる。瑕疵がないのだ。
ただ、暮しの手帖の「暮らしのヒント集」は断定的で頭ごなしな物言いでいただけない。
曰く、「人の陰口や噂話などのネガティブな話題には加わらないようにしましょう。さりげなく明るい話題に変えるとスマートです」とか「困っている人に声をかけると、気持ちの良い一日が送れます」とか、「年輩の友人は将来の希望を、あなたに与えてくれます」とか。
そんな道徳の教科書みたいな絵空事を真顔で断言されてもなあと思う、ツッコミどころ満載のすっとぼけた提言だ。でも、もしかしたらこれだって「あえて」針を振り切って「よりよき暮らし」を提案するという、有能なヤツら(!)の計算なのではないかという邪推も成り立つ。
凡庸な人間は、どうせいずれ慣性の法則で、ほどほどの「たまによりよき暮らし」に戻るんだから、出会い頭ぐらいガツンと極端な正論を吐く方がいい、と食えないくらい先を見越した、作り手&書き手たちの采配のような気もしてくる。
ああ、結局、なんだかんだ言って、ここまでいろいろ考えてしまうってことは、自分は彼らというか、この業界の掌の上で転がされているだけかもしれない。要するに、いちばんいい読者なんじゃないのか、と無難なおとしどころにしてみる。日和ったかな。
by 月亭つまみ
木曜日のこの枠のラインナップ
第1木曜日 まゆぽさんの【あの頃アーカイブ】
第2木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 月刊 切実本屋】
第3木曜日 はらぷさんの【なんかすごい。】
第4木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 やっかみかもしれませんが…】
まゆぽさんとの掛け合いブログです。→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」
はらぷ
やっかみ・リニューアル(ってなんだ)おめでとうございます。
ああ、おもしろかった!
つまみさんの頭の中のあーでもないこーでもない、が私の中のあーでもないこーでもないを刺激して、共感したり、にやにやしたり、ときどき反撥したり!
私は周りの人からうっかり「ていねいな暮らし系のひと」と推測されることがあり、中身はたいへんジャンクな人間なのですが、「そういう自分であれかし」と思ってときどき②な時があります。
無理してるっていうのとはちょっとちがうけど、そういうときはうれしくなってわざと人に言ったりする。で、化けの皮がはがれんじゃないかという謎の自作自演感に陥ったりもします(バカなのか)
「ていねいな暮し」業界にかぎらす、人の好みは千差万別なのに、なぜか世間的に「いいセンス」と思われている価値観みたいなのがあって、そういうのがいいな、と思う人だけでなく、とくに興味がない人たちにまで「価値」としては共有されている!あまつさえ劣等感すら抱いたりする、という心の動きの不思議。
その価値観が揺るぎないだけに、「自分だけ清いところに身を置いてる感じ」に反撥するのかな。そこに、その価値観と相反する(ように思える)自己顕示欲みたいなものが見え隠れする気がするからかな。
そしてその価値観は、時代によって変わったりするんだよね。
暮しの手帖の「道ばたの野の花をジャムの空きびんにそっと生ける」ような「美」が、しみったれたセンスとされていた時代、たしかにあったもの。
でもさ、憧れるのに、お金や時間に余裕があったとしても、私たぶんやらないの(笑)
どっちもの立場で読んでいる自分がいるのが不思議で、刺激的な脳の作用をひきおこしてくれたこのスリリングな新企画、これから超たのしみです。
あッこんなふうにあれこれ考えているって言うことが、すっかり「やっかみ」の術にはまってるってことじゃないの…。
アメちゃん
おはようございます!
私は、暮しの手帖よりもう少しファッション寄りの
大人のナチュラン系「ていねいに暮らす」人々がニガテですねぇ。
あの手の雑誌で紹介されるていねいな暮らしって
麻100%(彼ら彼女らは「リネン」という)の布巾や、ささらなんかを愛用してて
お母様から譲り受けたぬか床を大切にしてたりするんですよ。
もちろん、麻もささらも、ぬか床もぜんぜん悪くないんです。
私も性格がていねいならば、ぬか床で漬け物つけたいです。
でも、なんだろう…。
あの方々からそこはかとなぁく漂う
「こんな風にていねいに暮らす素敵な私」臭が気になるんですよね。
はらぷさんがおっしゃるように、あの方々のていねいな暮らしには
「いいセンス」とか「おしゃれ」という価値観が共有されてて
でも、彼ら彼女らがアピールしてくるモノやチョイスって
なんていうか、直球ど真ん中っていうか
「きっとこういうの持ってくるんだろうなぁ」と予想したら
やっぱりソレ持ってきた!って感じで、カテゴリ内からは外れない。
でもそういう、「そのまんまにカテゴライズされた自分」を語るのって
ちょっと恥ずかしくない??って思っちゃうんですよねぇ。
これ、同じことをベニシアさんやミゾイキクコさんがしてたら
嫌悪感を感じるどころか
私もこういう風に暮らしたいなぁって感じると思います。
ちょっと違うけど
東海林さだおのエッセイに出てくる「ドーダの人」みたいに
ていねいな暮らしに自己顕示欲の臭いがあるか、ないか、の違いもあるのかな?
はらぷさんじゃないけど、あーだこーだと考えてしまいますね。
つまみ Post author
はらぷさん、いの一番の反応、ありがとうございます!
ああ、わたしも「ていねいな暮らし系の人」とは誤解(?)されないものの、なんかよく「化けの皮が剥がれそう」とは思います。
それはもしかしたら、自分ではちゃんとした皮をつけているつもりなのに化けの皮だと「低く見られる」ことよりなんか、たまらないことかもねえ。
履かされた下駄にうっかり乗って、それに慣れると、本当に背が高くなったつもりになることって、人生にはままあることなんだろうけど。
清いところに身を置いている的スタンスを演出しているくせに自己顕示欲が強そうなのが見え隠れって、まさにまさに、わたしが言い足りなかったところです。
溜飲が急降下した!
こういう、自分がちょっと覚悟して書いた荒削りなことに対して、打てば響くような的確なコメントをもらえるって、すごくうれしい。そして、ほんのちょっと悔しい。
なんだよ、わたしの百の言葉の羅列でも焦点がぼやけていた本質を、5ぐらいで言いやがってみたいな(^O^)
つまみ Post author
アメちゃんさん!
おおっ、これまた、なんて打てば響くような、わたしの拙さを見事に完璧に推敲してくださったかのようなコメントなのでしょう。
そうなんです、わたしもそれが言いたかったんです、と後出しジャンケンのようなことを思っております。
ぬか床も梅干をつけるのもていねいな出汁とりも、ル・クルーゼも中川政七商店も、全然悪くないのに、それを「さらり」と語られるのはしゃらくさくてしょうがない。
自分うっとり臭がしてしまう。
それも、自覚しての「わたし今、自分にうっとりしてます」が感じられるなら可愛げがあるのですが、ていねい道の轍から一歩も外れていない、最近もどこかの誰かが語っていたのと寸分違わぬ(印象)センスや審美眼を、落ち着いた物腰と唯一無二的物言いで語られると、「なんかちがうよ」と思ってしまいます。
あ、本文よりやっかみが漏れ出てしまった(^^;
まゆぽ
リニューアルオープン、おめでとうございます!
やっかみ本文も、皆さんのコメントもおもしろかったあ〜。
うわー、そうだそうだ、うっすら思ってたことが
言葉になってるぜーとうれしかったです。
でもどちらかというと驚いた。
雑誌やテレビに出てくる「ていねいな暮らしの人」って
私にとっては「ファンタジー界の人」で、実在感が薄いです。
自分と比べることはほとんどなかったなあ。
むしろ、普段は自分と変わらないがさつさだと思っている身近な人の、
ていねいな暮らしっぷりをやっかみます。
例えば、がさつ仲間のTマミさんが
お義母さんの髪の毛ベリーショートにしてあげたと知ったりするとき。
暮らしや生活や友の付く雑誌を読んでも感じない
やっかみ感に襲われましたよ。
怖いのは他の星のていねいな暮らしの人じゃなくて、
身近で、同じくらいのがさつさと勝手に思っていた人の
小さな、ていねいな暮らしの断片を目にすることです。
自分でも手が届きそうで届かないものは
憧れつつやっかむしかありませんから。
つまみ Post author
まゆぽさん、コメントありがとう。
なんかさ、まゆぽさんってこういう話、どう感じるだろうって興味あったんだよねー。
でも、よもや、お義母さんの髪を雑にベリーショートにするTまみさんにやっかみを覚えるとはな。
ちょっとだけ「わたし、別にていねいじゃありませんよ。ふつうにやっているだけです。そんなそんな」という人の気持ちがわかった気になりました。
でも、他の星の人のことは気にならないけど、身近な人には反応しちゃうってわかる。
こいつ、あんなことも言って、こんなこともするくせに、いけしゃあしゃあと、そっちにも触手を伸ばしてるんかいっ!みたいな。
妙に足のあたりがざわざわする感じ。
芸能人や、まったく面識のない人間が、婚外恋愛に走ろうが、二股三股の渦中にいようが、全然興味ないけど、それが友達だったりしたら…あ、これはまた別ですかね(^^;