◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第67回 前に書いたかもしれない話
2006年に50代前半で亡くなった兄は、年が7歳離れていたので、わたしが物心ついたときはもう大人だった。それは、幼児からは小学生であれ年上の人間はこぞって大人に見える、ではなく、生前の母親の弁を借りれば、兄は自立心旺盛で早熟な少年だった。
小学校の低学年から、夏休みになると親の反対を押し切り、ひとりで母方の祖父母の家に行っていたそうだ。当時、家族が住んでいたのは福島県浜通りの原町市(現在の南相馬市)で、そこから、同じ県内とはいえ、会津地方の喜多方市に行くのはけっこう大変だった。
まず、原ノ町(駅名には「ノ」が入る)駅から常磐線で北上し岩沼駅で東北本線に乗り換える。ここまで50キロ強。岩沼市は宮城県だから、同じ県内に行くために一度県外に出るのだった。そこから今度は東北本線を約100キロ南下し、福島市を通過して郡山市まで行くのだが、まだ先は長い。さらに西に折れる磐越西線に乗り、磐梯山や猪苗代湖を眺め、スイッチバックなどという貴重なアトラクションを体験しながら観光都市会津若松市も越えやっと喜多方に到着する。郡山から喜多方までの距離はだいたい80キロなので、トータル230キロ。この長く複雑な行程を、10歳にもならない兄は易々とクリアしていたのだ。行くこどももこどもなら、出す親も親だ。
兄が中学生になるとき、父親の転勤で一家は原町市から同じ県内の梁川町(現在の伊達市)に引っ越したが、兄は家族と離れ、父方の祖父母の住む福島市の家から中学に通うことになった。福島市の中学校の方が梁川の中学校よりレベルが高いという父親の判断だった。その2年後、家族は福島市に引っ越し、のちにわたしも兄と同じ中学校に通うことになるが、親元を離れて通うほどの中学校だとは思わなかった。
小学校も中学校も成績がよかった兄だが、高校受験に失敗し、中学浪人をすることになる。受けた高校は福島市でいちばん優秀とされていた男子高だったが、模試が常に安全圏だったのでまさか落ちるとは誰も思わず、その高校しか受験しなかったのだ。
実はその日、お腹を壊していたと兄から聞いたのは、ずいぶん経ってからのことだ。兄は、朝ドラ「虎に翼」における優三さん&優未ちゃん体質だったのだ。だからトラツバで優三さんがここぞというときに苦悶の表情を浮かべるのを見るたびに、ああ‥となった。
兄の場合、単に緊張からくる腹痛ではなく、そこに卵アレルギー的なものが絡んでの複合的(?)症状だった。翌年、再チャレンジしたときは、その数日前から卵断ちし、その後も緊張しそうな日はなるべく卵料理を回避する人生を歩んだので、大学受験でお腹を壊すことはなかった。なので、国立一期校(当時あった制度)に落ち二期校の大学に進んだのは、単純に学力によるところであった(本人談)。
高校大学と、兄はボートの人だった。ポジションはコックスという舵取り係で、インカレでは選手宣誓をして新聞に写真が載ったりした。家庭教師を複数こなし、これが天職かもと嘯き、ガールフレンドもできて、妹から見ても大学生活を謳歌している印象だった。
父親が銀行員から脱サラして失敗し抱えた借金のかなりの額を返済したのは、大学を卒業して兵庫県の鉱山の技師になった兄だ。後々それを知ったわたしが「なんで親の尻ぬぐいをしなきゃならないの!?」と言ったとき、兄は「俺は親がかりで大学に行ったからなあ」と言った。親がかりで大学に行けなかった妹に対して、兄は申し訳なさを感じていたのだった。
おまえはたいしたもんだよと言われた。間髪入れずに「そんなこと、ない!」と返した。わたしが自力で大学に行こうと思ったのは、被害者意識が強い母親のそばを離れたかったからだし、「親が離婚してるんだから大学なんて行けると思うな」と一刀両断した祖母への反発だ。それだって、当初は短大から4年制に編入する目論見だったのが、体力がなくて‥いや、自分はそもそも勉強なんて好きじゃないんだと気づいて、2年で離脱したわけだし、その2年間ですら、授業中に寝てばかりいた。
反発と逃避と意地と少しの見栄で進路を決めた自分に、兄が劣等感に近い気持ちを持っていたことに驚いた。同時に、兄と自分の年齢差は、そのまま父親から離れる際の年の差なのだと思い至った。兄は父から逃げ遅れたのだと。兄が40代後半になって父親と同居すると聞いたとき、経済的事情もさることながら、自分と兄の、父親に対する距離の違いを痛烈に感じたのだった。
ほぼ一緒に暮らすことなどなかったので、兄のことを実はわたしはよく知らないのだった。いちばん話をしたのは、兄の病気が発覚して亡くなるまでの一年間だ。当時、わたしは図書館勤務を経てパートで事務員をしていたが、ある日突然、兄は新聞の求人広告の切り抜きをわたしに差し出した。それはどこかの図書館の求人で、兄はまた図書館で働けばいいのにと言った。
そのときは鼻にもかけなかったわたしだが、その後、居住区に新しい図書館が建てられ、まとまった人数の非常勤職員募集に自分が応募したのは、兄のその言葉のせいなのだった。
今、兄のことを忘れないようにと意識して努めている自分がいる。亡くなって18年、兄は家庭を持たなかったので、わたしが兄を忘れてしまったら兄が存在したことすら消えてしまう気がして‥というのは建前だしウソくさい。兄の闘病中の自分に後悔がある。でも、それだけでもない。なんていうか、人が若くして死ぬのはとにかく悲しいのだ。
偏屈な兄と偏屈なわたしの夫はけっこうウマが合い、夫は今でも折に触れ「邦ちゃん(兄の名前は邦之)はこの曲が好きだよねー」などと言う。夫は会話の時制がわりといいかげんなので、登場人物はこぞって存命みたいだ。それは悪くない。
兄の告別式のときに、年嵩の親戚が「邦ちゃんは苦労ばかり背負わされて」と言った。うるせー!と思った。闘病中、少し元気だった時期の兄は、自分はけっこう楽しい人生を過ごしてきたと思っていると言っていた。でも、それを親戚に言ったところでしょうがない。その親戚ももう今はいない。わたしとて、今後何十年もこの世にいるわけではない。まあ、どっちみちみんな徐々に忘れられていくのだ。それでいいんだけれど。
もうすぐ兄の誕生日だ。
by月亭つまみ