【隔週刊★切実本屋】VOL.79 夜明けを待つ
現在、サイトのこの枠は、第二木曜日が【月刊★切実本屋】、第四木曜日が【やっかみかもしれませんが‥】で営業している。認識している人はあまりいないかもしれないし、自分でも「どうだっていいか」と思わないでもないが、こう見えて決めごとを作るのは嫌いじゃないのだ(秘めごとと一字ちがい。しかも同じ韻‥どうでもいい)。なので本来、本日(3/28)は【やっかみかもしれませんが‥】更新の日なのだが【月刊★切実本屋】が隔週で緊急登板である。その理由は『夜明けを待つ』(佐々涼子/著)を読んでしまったからだ。
佐々涼子さんの本を読むのは2冊目で、読み終わったのは今回が初めてだ。昨年の夏、『エンド・オブ・ライフ』を読み始めたのだが、わりと序盤で挫折した。つまらなかったからではない。むしろその逆だ。逆過ぎてつらくなった。読み始めたタイミングで、特養入所中の義母が危篤になった(のちに回復し、現在は安定している)せいもあるが、今まで経験した身内の闘病や死にまつわる悲しみや逡巡や諦めや迷い、もっといえば逃避や倦厭や狡猾さが、次々によみがえってきて、なんだか責められているような心持ちになってしまった。
間違った被害者意識だとは自覚していたし、読み進めば、そんな自分のいまさらな後悔にも意味があったと思えるような光景が広がっているのだろうと予測もできた。が、目先のつらさで本を閉じてしまったのだ。
佐々涼子さんの病気のことを知ったのは今から数か月前だ。そのとき、最新刊『夜明けを待つ』もたぶんすぐには読めないし、読もうとしないだろうなと思った。
その方針を変更したのは、SNSで見かけたこの本の感想に、複数の人が「美しい文章」と書いていたからだ。改行の多さ、行間の広さ、居場所を失いそうな句点‥などに象徴されるようなご時世に「美しい文章」という、シンプルで普遍性を感じさせる表記は妙に新鮮に映った。抽象的だし、そこに食いつく自分は短絡的だとも思ったが、作者が文字どおり身を削って綴った(たとえ病気発覚前に書かれた文章だとしても)美しい文章なら、やはり時間を置かずに読もう、読むべきだと思い直した。
存外に静かな世界だった。そう、まさにタイトルどおり、夜明け前のしんとした佇まいだ。前半は短めのコラムが続く。読みやすい。シリアスなテーマばかりなのに、ことさら咀嚼の時間を設ける必要性は感じない。でも、だからといって咀嚼せずに丸呑みはできない。書き手は、文章と読み手の間の緩衝材であると同時に圧なのだ。圧などというと邪魔者みたいだが‥いや、邪魔者でいいのかもしれない。
書かれている世界=書き手が伝えたい世界 なら、書き手が文章に、より自分を投影、介在させ、流すことを阻止し立ち止まらせ、みっともないくらい必死に「伝えようとする」のは当然のことだ、だからよけいに文章の美しさが際立つ、美しさとはこころざしだ‥などと、なんだか月並みなのか変化球なのか不明の、愚にもつかないことを思いながら読む。
中盤からはルポルタージュになる。移民と難民‥特に彼らの言語・言葉についてが、静かで一定の温度の筆致で綴られる。温度は変わらずとも、そこにアツさや冷静さは出せる。アツく語る、クールに話す、という表現がいかに表層的かと思う。
『夜明けを待つ』の文章の美しさは、こころざしプラス透明感だ。圧倒されたり、打ちひしがれたり、社会に憤ったり希望を感じたり、いろいろなものを愛おしく感じたりして読んだが、常にそこに透明な水が流れている気がした。
そんな自分のこの本の白眉は、永平寺町にある寺での二泊三日の「禅の旅」の章だ。精神世界を語られる際にしばしば感じるある種の危うさやうさんくささを凌駕する自由を感じた。もっといえば、自由というのは、枠や制限や限界がないことではなく、それを感じてもなんらかの方法で超えていく可能性を捨てないことだと思った。
とはいえ、それが即、自分の今後を自由にするとは思わない。たぶんこれからもわたしは不自由で、自分で自分の鋳型を作り、それに嵌まり、なにもできないと嘆くのだろう。でも、ままならないことが多いからこそ享受できる清々しい一瞬がある気がする。気がするだけでも、少し希望を持つことができる。
佐々涼子さん、ありがとう。届け!
by月亭つまみ