【月刊★切実本屋】VOL.75 持ってる‥かもしれない
「最近あんまり本を読んでいない」「昔より読まなくなった」と表明する人が周囲に増えている。自分にもその傾向がないわけではないが、そう言われると淋しい。その淋しさは、同じ公園で一緒に遊んでいた友達が徐々に減っていく心細さに近い。
時が経てば人は変わる。体力や知力や視力、環境や趣味嗜好、人生における時間の使い方の優先順位が変わる。でも、自分にとって本を読むことは昔から楽しい遊びで、できれば一生遊び続けたいという気持ちはずっと変わらない。だから、イメージが職場でも学校でもなく公園なのだろう。公園に、いいトシをした大人が、頼まれてもいないのに集い、同じ本を読むわけでもなく、感想を言い合うわけでもなく、本を開いたり雑談したりしながら時を過ごす‥そんな世界観が麗しいと年ごとに強く思うようになってきた。
今年はけっこう公園に滞在する時間を持つことができた。そして、いくつになっても世界は知らないことばかりだと感じ入る本にたくさん出会った。丸山正樹著のデフ・ヴォイス シリーズもそのひとつだ。
両親と兄が聴覚障害者(ろう者)で、自身は家族でただ一人聴覚に障害を持たない(聴者)荒井尚人が主人公である。荒井のような立場はコーダと呼ばれ、これは「コーダ あいのうた」という映画が話題になったことがきっかけで、最近になって広く知られるようになった言葉だと思う。
デフ・ヴォイス シリーズの荒井は、仕事と結婚に挫折し、当初は気が進まなかった手話通訳士という仕事に就く。そこからシリーズは始まって、現時点で四冊刊行されている。一作目『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』は長編で、まずこれにガツンとやられた。ストーリーもさることながら、手話には日本手話と日本語対応手話のふたつがあることが驚きだった。思わず、周囲の一般人何人かに「知ってた?」と聞いたが、誰も知らなかった。
この「ふたつの手話」は並列で存在しているわけではなく、そもそもの概念が違う。日本語対応手話が、聴者が使う日本語という言語を手話によって表現するものであるのに対し、日本手話はそれ自体が言語で、文字は持たない。そして、手や指だけではなく身体全体を使って表現される。表情や目線も重要な文法要素になっているのだ。
デフ・ヴォイス シリーズは、ろう者にとって重要であるこのふたつの手話、そしてコーダなどについて、ろう者だけのこととせず、もちろん聴者論理ではなく、安易な着地点を設けないで正面からリアルに描いている。ろう者、コーダ、そしてろう者と直接かかわる生活をあまりしていない(わたしのような)聴者それぞれが、それぞれに対して抱く幾層もの、時にダブルスタンダードな思いを、ミステリーという形をとることで多くの人向け仕様にし、なおかつ深く、手作業で(←イメージ)紡いでいる。障害を持つ人、その周囲の人たちの気持ちを誠実に掬い取ろうとしていることが伝わってくる。
二作目『龍の耳を君に: デフ・ヴォイス』(これもいい!)以降は連作短編の形になっていて、わたしは現在、三作目まで読んでいる。今後シリーズが何作目まで、どんなペースで、続くかはわからないが、とりあえず現時点で刊行されている四作目まで読んでからここで記事にしようと思っていた。でも四作目は読んでいないのにこうして今書いている。なぜかというと、三作目の『慟哭は聴こえない デフ・ヴォイス3』が、中でも第三話「静かな男」が、とてもとても心に沁みたからだ。
取り壊しが決まった簡易宿所で男の変死体が見つかる。男は路上生活者だったと思われ、生活困窮者の支援を行っているNPO団体にも認識され「オトナシさん」と呼ばれていた。それだけでなく地元のケーブルテレビのスタッフにも知られていて、そこでは「ミッキー」だった。男は何者だったのか。ひっそりと生きていたとしか思えない男が、どうしてケーブルテレビのスタッフに周知の存在だったのか。亡くなった男が持っていた、他の所持品とそぐわない小ぎれいなジャケットとスラックスの意味は?
60ページほどの短編だ。騙されたと思って(?)とにかく読んでほしい。‥いや、やはりシリーズ一作目から順番に読んで「静かな男」に行きついてほしい。読後感のせつなさ、尋常じゃないから。ここ十年ぐらいの自分の「短編のベスト3」に入ると断言する。騙されたと思って(二度目)ぜひ!
折しも、今週の土曜日16日と来週の23日の前後編で『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』がNHKで放送されるとのこと。この記事のための画像を検索していて知った。ドラマ化されることは認識していたが、まさか今週末からとは!放送に合わせてこの記事を書いたわけでは全然なかったのに。なんてタイムリーなのだろう。
もしかして、わたし、持ってる?
by月亭つまみ